『LIFE AT WAR』より。
「日の丸」は昭和に入ってほどなく暗い歴史を辿りました。いや、旗が悪いのではありません。時代が芳しくない方向に急旋回したのです。
特に、昭和も二桁になると、中国大陸からアジア太平洋へと戦線が拡大していくに従い、「日の丸」は戦地で、盛んに用いられ、内地では大量生産が行われました。
1963年の秋のことでした。私が東京オリンピック(1964年10月)のための国旗を発注した時、三宅さんという大阪の国際信号旗株式会社の社長で、いかにも「旗屋の旦那」という雰囲気の人と親しくなり、国旗の製作についてずいぶんいろいろ教えていただきました。
その三宅さんが、組織委のあった今の迎賓館の「羽衣の間」で、ある日、ふと涙を浮かべ、「この国旗は全部、平和のためや。ええなぁ。わしらは若い時分、戦争のための旗ばかり作りよってに」と感慨深げに語っていたのが忘れられません。