2010年1月12日16時53分(日本時間=13日6時53分)にマグニチュード7.0の大地震がハイチで起こりました。貧困と政情不安に起因する社会基盤の脆弱さにより、20万人もの死者が出るなど、スマトラ島沖地震(2004年12月、死者22万人以上)に匹敵する深刻な被害となったのです。
この地震により亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表します。フランスやアメリカそして中国が大規模な救援隊を派遣しています。日本からは、日赤医療班の9人がまず出発した。国際赤十字赤新月社連盟の150人の国際救援チームに参加するこの医療班は、隣国ドミニカ共和国から陸路で、ハイチ入りしました。同連盟の会長である畏友・近衞忠煇日赤社長も現地入りをして指揮をしました。近衞氏と私は1972年に誕生したばかりのバングラデシュの離島ハチア(1970年11月の洪水で全島が冠水し、地理上から消えたと報道された島)で文字通り寝食を共にして、救護活動をした仲であり、カンボジアではポルポト政権崩壊後、報道関係者二人を除き、日本人としては初めて入国しました。
近衞社長がハイチから戻った2月8日、私が主催し、司会をして250人の方にお集まりいただきました。
私が特別顧問をしている難民を助ける会も早々に駆けつけ、現在も数名の代表が引き続き滞在して、支援活動を続けています。一時、女性スタッフが至近距離から銃撃されて重傷を負うという事件がありましたが、一命を取り留め、今はすっかり回復し、活動を続けています。日本の救援活動もようやく大きくステップアップした思いです。
ハイチの首都ポルトプランス(王子の港)の映像を見ていると、およそ地震の対策をしてこなかったということが、建築の素人にもわかります。鉄筋も入っていないし、柱も細くてあまりに弱そうです。世界最貧国の1つであるとはいえ、ほとんど国家が壊滅してしまうような悲惨さをどうしようもなかったのでしょうか。
ハイチはナポレオンが欧州の戦争にかまけている隙をついて、主として、フランスによって奴隷としてアフリカから連れてこられた人たちが、1804年に独立を達成したのです。近世世界最初の黒人独立国です。
すから、コフィ・アナン国連事務総長(当時)は、この地震の6年前の2004年1月、ハイチ共和国の独立200周年にあたりその意義を要旨、次にように指摘したのです。
「この記念日が全世界の人々にとって極めて重要であり<奴隷制との闘争とその廃止を記念する国際年 the UN International Year to Commemorate the Struggle against Slavery and its Abolition の最高のスタートとなりました。ハイチの人々が先人たちの精神を思い起こし、現在の政治的な難局を克服していくよう希望します」。
ハイチの国旗は宗主国フランスの三色旗から白人を連想させる白を取り除き、青と赤の2色にした。青が黒人を、赤が黒人と白人の混血であるムラートと呼ばれる人たちを表しています。
被災地のあちらこちらに国旗が掲げられて、被災者の沈みがちな心を奮い立たせようとしていることも映像で分かりました。
ところで、ハイチの国旗、中央の紋章は、いかにも戦闘的です。ローマの解放奴隷に由来する「フリギア帽(自由の帽子)」を載せたダイオウヤシの左右に、大砲、銃剣、太鼓、ラッパ、斧などを描き、下のリボンにはフランス語で「団結は力なり」と書いてあります。
他方、ハイチと隣合わせでエスパニョール島を2分しているドミニカ共和国はもともとはスペイン領でしたが、一度はハイチに併合され、1844年に、そのハイチから分離した国。国旗は、対称的に平和なデザインの紋章です。デザインしたのが、三位一体教会の創始者フアン・パブロ・デュアルテ。聖書と十字架の上に、スペイン語で、「神、統一、自由」とあり、下のリボンには国名が描かれています。この「聖書」は、以前、駐日大使館員だった人と居合わせたところ、「ヨハネによる福音書」の8―32のところが開かれているのだそうです。そこにはY la verdad os hará libre (そして真実は汝を自由にするであろう)と書いてあるのだそうです。
ハイチに天啓による安寧と発展が訪れることを祈念します。
国旗のせいではないでしょうが、幸いドミニカ共和国では天災も人災も少ないようです。