栄光のフランス三色旗 – 「皇帝」ナポレオンのパリ帰還

海外旅行が自由化し、高度経済成長の波に乗って縁が本当に強くなり、フランスはあまりに「近く」なった。


フランスの国旗

ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)

私が初めてパリに降り立ったのは1968年12月15日。雪が降りしきっていた。

西洋政治史を専攻した(はずの)私は1812年のこの日、ナポレオンがモスクワから逃げ帰った日であり、1840年のこの日は、に覆われた棺に入ってナポレオンがパリに帰還し、自ら建立したエトワールの凱旋門をくぐったことを知っていた。

この凱旋門に向かってシャンゼリゼ通りの右側にあるクラリッジホテルのロビーで、たまたまナポレオンのような服装をしていたホテルの総支配人に出会った。「128年前のきょう、この通りにヴィクトル・ユゴーが立って皇帝への思いに涙したんですね」と話しかけた。


パリの廃兵院(アンヴァリッド)にあるナポレオンの墓

ユゴーは、この日のことをその直後に発表した『光と影』で次のように謳っていることを大学院のフランス憲法史の授業で松本馨教授に教わっていた。

「凍るような空よ! 澄んだ太陽よ!
おお、歴史に輝け!
死から、勝利するのだ。皇帝の炎が!
民衆よ、君を永遠に記憶に留めたまえ、
栄光のように晴れたこの日、
墓のように冷たいこの日に」

ナポレオンが流刑地である英領セント・ヘレナ島で没したのは1821年5月5日17時49分と記録されている。イギリスは遺骸を同島に埋葬した。棺に入ってでもパリへ期間を望んでいたナポレオンだったが、それがかなったのは、死後19年経った1840年12月15日であった。零下10度を下回る寒さの中に、ヌイィー橋からアンヴァリッド(廃兵院)まで、多くの人々が沿道に詰めかけて、「皇帝」を迎えた。30代後半のユゴーもまた、群衆の一人として脱帽して、深い敬意を払いつつ満面を涙にしていたのだった。

また、ヌイィー橋では、既に老人となっていたかつての近衛兵たちが、まるで、ナポレオン全盛期のアウステルリッツでの前夜の如く、大きな焚き火をたいて夜を明かしたと伝えられている。この三帝会戦とは1805年12月2日、現チェコのモラビア地方ブルノ近郊でナポレオンが露、墺両国の皇帝麾下の大軍を撃破した戦いのことだ。

ナポレオンの棺を迎えたパリの人たちは、手に手に三色旗を持ち、いにしえの皇帝の栄光を懐かしく回顧したのであろう。

クラリッジホテルの総支配人は、「あの日」のことを知っていた、当時は珍しいとうように人の出現に、こちらは満面を笑みにして感激した様子で、部屋にワインや果物、花束などなど、特別の差し入れがあった。たしか、宿賃もかなり安くなったような記憶がある。あれから45年、青年時代の懐かしい思い出だ。


フランソワ・ジェラール「三帝会戦」
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