アフリカを知ろう!① – 南スーダン

7月10日付朝日新聞は、独立から1年たった、南スーダン(国連最後の加盟国=193番目)からの特派員によるレポートを掲載し、さらに「若い祖国、戻って支える アフリカはいま」と題して、ルワンダ、コンゴ民主共和国等からのレポートを続けている。

邦字紙、特に最近の朝日新聞は国際面を13面にもってくるほど、マルドメ(まるっきりドメスティック)化しており、私はがっかりしていたが、そうした中で、こういう記事はうれしい。

数年前まで朝日新聞には松本仁一さんという「アフリカ通」の大記者がいて、個人的にも多くを教えていただいた。

こうした企画記事に強いのは朝日ならではの層の厚さによるものであり、時々、許しがたい記事もないわけではないが、何十年と愛読している由縁である。

南スーダンではまず日本のNGO各団体が事務所を開き、今春から自衛隊も南部で活動を始めている。

南スーダンの独立から9日で年を迎えた。民族・宗教対立による20年余の内戦中に故郷を追われ、欧米などで高等教育を受けた人々が独立を機に続々と母国に戻っている。放浪した古代ユダヤ人になぞらえ、「ディアスポラ」と呼ばれる。


南スーダンの6色の国旗は南アと並んで最も多くの色を使ったデザインの国旗。

首都ジュバにある公立病院。整形外科医のアカウ・アグトさん(48)が笑顔で患者に話しかけていた。

今年3月、12年間勤めたノルウェーの総合病院を辞め、母国に戻った。給与は10分の1程度に。南スーダン人の妻と2人の息子はノルウェーに残してきた。

妻は「子どもの教育が終わったら追いかける」と言った。同僚のノルウェー人医師は「何を考えているんだ?」「給与は?」「家はあるのか?」と驚いた。

アカウさんは「国を出る飛行機の中でいつか帰って母国に尽くすと決めていた。木の下にだって住める」と答えた。

ジュバ大医学部1年生だった1984年、内戦が激化した。同級生は学校を去り、銃をとって多くは死んでいった。アカウさんは翌年、エジプトに逃れて勉強を続けた。「自分は臆病で戦えなかった」

6年後、北部(現スーダン)の首都ハルツームで研修医となった。しかし、衛生兵として南部との戦闘に参加するように命じられた。南部の同胞を裏切る思いがした。ドイツに逃れ、大学院に進んだ。「仲間が血を代償に独立という夢を勝ち取ってくれた。今度は私たちが知識で独立を支える番だ」。

インフラもほとんどない新しい国をビジネスチャンスととらえ、「南スーダンドリーム」をつかむ若者もいる。

首都ジュバ市内のクーラーが利いた事務所。「トングループ」会長ジョン・トンさん(32)の指には巨大なダイヤモンドが光り、壁には所有するスポーツカーの写真が貼られていた。「自分へのご褒美だ」とほほえんだ。

内戦時代、少年兵のリーダーだった。仲間の子どもが敵に殺されたり、ワニに食われたりする中、必死に戦った。1991年に武装解除を受け、12歳の時にケニアの難民キャンプに連れてこられた。学業成績を見込まれて国際支援で米国に渡り、その後、英国に移り住んだ。ケンブリッジ大などで情報工学を学んだという。

南北スーダンの停戦を契機に2006年、パソコン1台を持って英国から戻った。コンピューターソフト関連事業を始め、建設業、航空貨物輸送など八つの会社を立ち上げた。どれも国造りに必要だと考えた。

難民キャンプ時代の知人たちにも声をかけた。従業員は600人、英国や米国にも事務所を構える。事務所には休日でも人が絶え間なく出入りしていた。「我々はアフリカ基準で仕事をしていない。勤労、プロ意識こそ国際的に生きる道だ」と語った。

そして「自分はずっとリーダー。少年兵時代は戦闘で仲間を助けた。今は自分の能力で雇用を生み、仲間を助けていく」。

南スーダン政府は、内戦で国を追われて海外に定住していた「ディアスポラ」の帰還を促している。自身もディアスポラのアテム情報省副大臣は「内戦中、国内では皆が教育機会を失った。南スーダンは立ち上がったばかり。自分たちの足で歩き始めるには人材が必要だ」と話した。(ジュバ=杉山正)

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