国旗で見る日米関係③ – 新井白石がアメリカを記述

日本人がこの島国のはるか東に大陸があると認識したことを記す最初の書物は新井白石の『西洋紀聞』。密かに屋久島に上陸したシチリア島出身のイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バティスタ・シドッティ(1668~1714)を捕縛・訊問した記録である。


新井白石(1657~1725)

シドッティの来日については、太宰治が『地球図』、藤沢周平が『市塵』という作品を遺しているが、実に数奇な一生である。日本での布教の至難さについてはヨーロッパへも宣教師の報告が伝わっていたが、なればこそと鎖国下の日本への渡航を決意。教皇クレメンス11世がこれを許可し、まず、マニラで4年間、布教活動をして大いに功績を挙げたのだった。その後、周囲の反対を押し切り、このため特別に建造された船に乗って、1708(宝永5)年10月、頭を月代に剃り、和服を着用し、大小二本差しという武士の姿に変装して、屋久島に上陸した。しかし、島の農夫に見つかり、言葉が通じなかったことから、役人により、長崎へ送還された。

時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から尋問を受けたのは翌年、江戸で。白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、二人は互恵の念を持ちながら接し、多くの学問的対話を行った。その中で、シドッティは、従来の日本人が持っていた「宣教師は西洋諸国の対日侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解したとされる。

しかし、尋問後のことは、太宰治の『地球図』から引用しよう。シロオテとはシドッティのこと。

白石はシロオテの裁断について将軍へ意見を言上した。このたびの異人は万里のそとから来た外国人であるし、また、この者と同時に唐へ赴いたものもある由なれば、唐でも裁断をすることであろうし、わが国の裁断をも慎重にしなければならぬ、と言って三つの策を建言した。「上策:本国送還。これは難しく見えるが、一番易しい。中策:囚人として幽閉。これは簡単なようで実は難しい。下策:処刑:これは簡単なようで実際は簡単」だということだ。

第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此事難きに似て易き歟(か)

第二にかれを囚となしてたすけ置るる事は中策也(此事易きに似て尤(もっとも)難し

第三にかれを誅せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし)

将軍は中策を採って、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。しかし、やがてシロオテは屋敷の奴婢、長助はる夫婦に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。シロオテは折檻されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。

それから間もなく牢死した。下策をもちいたもおなじことであった。

白石が本国送還を上策として具申したことは、今日の視点で言うならば、「さすが」と称賛されるべき策であろうが、それによって日本の実情がヨーロッパに伝わることを恐れたた幕府は、シドッティを江戸の茗荷谷(現:文京区小日向拓殖大学付近)にあった切支丹屋敷へこの切支丹屋敷では宣教を禁じられたが、25人扶持という破格の待遇で軟禁されていたのだった。しかし、太宰が書いたように、長助とはるに信仰を授けたことにより、境遇は激変、結局、入牢10ヶ月、1714(正徳4)年10月21日に衰弱死した。享年わずか46。

白石はシドッティから得た知識をまとめ、『西洋紀聞』と『采覧異言』を著した。これは当時の日本の最高権力者たちが世界を知る唯一の書であった。諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意と、白石の批判などが記されている。1715年頃に完成したが、鎖国下のため秘本として受け継がれただけで、公開されたのは19世紀の初めになってからだった。

また、シドッティが所持していたカルロ・ドルチの「親指の聖母像」といわれる図像は、現在重要文化財として東京国立博物館(上野)に収蔵されている。


メイフラワー号新大陸到着300年の記念切手

アメリカについてシドッティがどう語り、白石がどう受け止めたかについては機会を改めたい。ただ、国旗の視点で言うなら、当時のアメリカ植民地はまだ東海岸にほんのいくつかの植民地を気付き始めたばかりであり、「星条旗」の誕生はこのあと約170年を待たねばならない。

他方、日本では覇を競う戦国武将がいずれも何らかの形の「日の丸」の幟や扇を用いた絵巻が多数残っており、また、1612年(1604年説も)シャムに渡った山田長政(1590~1630)を描いた絵図にも「日の丸」が描かれている。


「日の丸」を掲げて進軍する、シャム(タイ)における山田長政
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