国旗のある風景33 – 大正時代の尖閣諸島・魚釣島で


日本の国旗

石原都知事による尖閣諸島の購入計画の発表、香港の民間活動家たちの魚釣島上陸と、ここのところ、尖閣諸島をめぐる報道が続いている。

個人的には、所有者が都に無償で寄贈し、都はこれまでの募金を全額所有者に寄付するのが一番いいと思っているが、その話題は別途と言うことにしよう。さもないと、北方領土の地権者たちの「自分たちの土地も国で買い上げてほしい」との要望に対し、国からの納得できる回答が出しにくくなるのではないか。

尖閣諸島は歴史的、法的に何の疑念もなく日本固有の領土である。必要があれば断固防衛し、かつ、安全保障の点でも、経済的や資源開発の点からも、そして環境保全の視点から、これらの島々を大切に保全してゆくべきであると考える。

そもそも尖閣諸島を開拓したのは、福岡県八女市出身の実業家・古賀辰四郎であった。古河は1870年代後半に八女茶の販路拡大のために沖縄に進出し、高級ボタン用のヤコウガイ(夜光貝)の採取とその輸出で富をなした。夜光貝ヤコウガイはインド洋や太平洋の珊瑚礁地帯に多く見られるリュウテンサザエ科で最大の貝。成体の重さは2kgを超え、直径15~20cmほどにまで成長する、きらきら輝くように見える巻貝。

さらに古賀は、1895年(明治28年)に政府から尖閣諸島を30年間の期限付きで無償貸与され、鰹節工場やアホウドリの羽の加工場を設けた。アホウドリは尖閣諸島と小笠原の鳥島にのみ生息するが、人間が近づいても逃げない習性のためたやすく乱獲され、羽毛として活用されるあまり、絶滅寸前となり、現在、保護活動が実施されている。

1884(明治17)年に尖閣諸島に調査団を派遣した古賀辰四郎は翌年から二度にわたって魚釣島など四島の「借用願」を提出、1896(明治29)年に、ようやく国有地である大正島を除く四島を30年間無料貸与される許可を受けることができた。

古賀は尖閣諸島の開拓に努力し、1908(明治42)年には、日本政府から「藍綬褒章」が授与された。

無料貸与期間の終了にともない、昭和以後は1年契約の有料賃与となったが、1932(昭和7)年3月31日、日本政府は、古賀善治に大正島を除く四島を有料で払い下げた。しかし第二次世界大戦直前には、船舶燃料の配給制にともない渡島ができなくなり廃止となった。

写真は1910(明治43)年頃の魚釣島での様子。

この当時の尖閣諸島には、一時は280名あまりの島民が暮していた。1932(昭和7)年に辰四郎の長男・善次に当時の価格で1万5千円で払下げ(2010年時点の金額換算で約2,500万円、大正島を除く)となった。

戦後は事実上、放棄されたままになり、わずかに米軍が久米島を射爆場として使用してきた。

4島はその後、善次の妻が所有し、1970年代に埼玉県内の親交のあった現保有者に約4,600万円で売却した。

1968(昭和43)年に国連の海洋調査団がこの海域の海底調査を行った。これが1969(昭和44)年に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって公表され、周辺海域に膨大な海底資源が眠っていることが明かされたことから尖閣諸島の領有権にまず台湾が主張、ついで、中国も声を上げた。

日本政府は東海大学に委託して、尖閣諸島周辺海域の海底調査を行わせたところ、海底に石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に20万㎢に広がり、その層厚が3,000m以上に及んでいることが分かったことが、領土紛争の発端となった。

台湾や中国が領土件を主張するなら、なぜ、明治期に日本が先占を主張したとき以来、反論しなかったのか、戦後、米軍が射爆場として一部を使用してきていることをなぜ、黙認してきたのか。台湾や中国の主張は国際法的に見て、いかにも無理である。欲の皮が突っ張って、「それはボクのものだ」と騒いだだけと言われても仕方あるまい。

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