ジョン万次郎が訪問した小笠原

ジョン万次郎について書いた機会に、小笠原諸島の位置と歴史について触れておきたい。

小笠原諸島は伊豆諸島の南に並ぶ島々。最南端は硫黄島を経、さらに南西に寄った沖の鳥島(北緯20度25分)、最東端は南鳥島(マーカス島、統計153度59分)。その中央付近に父島、母島などから成る小笠原群島がある。人口2,887人(2012年7月1日現在)、父島には国や都の出先機関がそろい、天文台や測候所もある。

昭和初期には海軍の演習を視察した陛下が上陸したこともあるし、今上天皇・皇后両陛下は20年ほど前だが、水上機で父島の二見湾岸に着水、ご訪問された。

東京・芝浦桟橋から東海汽船で南南東に29時間ほど、ほぼ真南に下ったところに、父島、母島、兄島、聟島などが群島になって位置している。大島、三宅島、八丈島、青ヶ島はそれぞれが独自の自治体、青ヶ島村は200人にも満たない日本最少人口の地方自治体。

八丈島は平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害したとの伝説が残っているが、これはあまり信用できない話。公式な流人第一号は、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家(1572~1655備前岡山城主、574,000石。秀吉の五大老の一人)であり、その子孫は秀家の正室・豪姫の実家・加賀前田家の援助を受けながら、明治2(1869)年に至ってようやく赦免された。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋の加賀藩下屋敷跡に移住したが、数年後、一部が島に戻り、現在も秀家の墓を守っている。


宇喜多秀家

最後の流人は北方探検で知られる旗本・近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵(1771~1829)。

近藤重蔵は寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、4たび蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内を案内役として千島列島、択捉島を探検して名を残している。択捉島に「大日本恵登呂府」の木柱を立てたことで知られる。

すなわち、近藤は択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。さらに2年後にも同島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建立した。この後、1801年には幕命により調査にあたった富山元十郎と深山宇平太がさらに北の得撫(ウルップ)島に「天長地久大日本属島」の標柱をそれぞれ建てている。


宇喜多秀家

また、近藤は松前奉行設置にも貢献。北方貿易で財をなし、今の北方領土で盛んに交易をした高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させるということもした。1897年、ロシアが乱暴狼藉を働いたフヴォストフ事件(文化露寇)に伴い、五度目の蝦夷勤務となり、利尻島や石狩平野を探索。江戸で、将軍・家斉に謁見を許され、札幌地域の重要性を説いたことでも知られる。


近藤父子については、この久保田暁『北方探検の英傑 近藤重蔵とその息子』に詳しい(PHP文庫)

しかし近藤重蔵の晩年は辛いものがあった。自信過剰で豪胆な性格が災いし、1819年に大坂に左遷。2年後には江戸・滝ノ川村に閉居の身となった。加えて、1826年に長男・富蔵が町人を殺害して八丈島遠島となり、自らもこれに連座して近江国大溝藩預けとなった。その3年後、1829年に亡くなったが、赦免されたのはその31年後、富蔵は50年以上もの間、島で流人生活を送り、最後の「八丈流人」となった。赦免されたのは1880(明治13)年。しかし、流人生活を記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。また、吉村昭の『漂流』や久保田暁『北方探検の英傑 近藤重蔵とその息子』でも詳しく描かれている。

八丈島には東京都八丈支庁があり、日夜、国旗「日の丸」を掲げているのは当然である。

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