戦時中、日米決戦となった硫黄島を別にして、父島を中心とする小笠原群島の要塞化が進んだ。終戦の前年、軍人・軍属を除く全島民が本土に強制疎開させられた。後にアメリカ第41代大統領(1989年~1993年)ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(“パパ・ブッシュ” George Herbert Walker Bush, 1924~)は、小笠原周辺の上空で搭乗機が撃墜され、海上で米潜水艦に救助された経験を持つ。2012年8月24日現在、存命中のアメリカ大統領経験者では最高齢(88歳)。
終戦後、サンフランシスコ講和条約の第三条により、アメリカ海軍の統治下に置かれ、血統的欧米人らは帰島が認められたが、一般の旧島民の帰島は1968(昭和43)年6月26日に本土に復帰するまで果たせなかった。この日、小笠原村では「星条旗」が降納され、「日の丸」が掲揚されたが、周辺にはほとんど、日本政府、東京都の役人だけであった。
日本政府と連合軍側(現在の国際連合)との条約である。
米軍政時代には欧米系島民は戦前の土地区画に関係なく、決められた区画に集められ、その多くは米軍施設で働いた。島の児童・生徒は、米軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。
戦前の土地区画に関係なく欧米系島民が居住したことは、返還後、戦前の土地所有者との補償交渉で大きなトラブルとなった。
1994年、北方領土が返還された場合のあり方について参考にするため父島を訪れた私は、復帰後26年目で、未だキリスト教会の借地問題で裁判が続く現実を見た。さらに、欧米系の人から、「ここに核兵器が貯蔵されていた」という檻のような扉のついた小型の倉庫に案内された。「ここに何かを運び込もうとする日は島民全部に外出禁止令が出たものです」。
この後、日本政府の意向を無視して父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって明らかになった。
今やホエール・ウォッチングで人気スポットとなっている小笠原諸島だが、これらの島々と「日の丸」との関わりは、何度も難しい局面があったことを忘れてはならない。
<参 考>
「ウィキペディア」によると、第41代米大統領パパ・ブッシュの戦歴の詳細は次の通り。
ブッシュ(父)大統領
1944年9月2日9時前、ブッシュは軽空母サン・ジャシント から僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔は米軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、米軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。
ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の三人であった。本来ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日にブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。
ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。ブッシュは無事着水し生存した。
すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。
通信から数時間後、島から15〜20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因ではなかったかと語っている。
救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後一ヶ月、潜水艦の目として、撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。
一月後ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。
なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、8人の米軍兵士が捕虜として日本兵により人肉食されていたことが戦後の裁判で明らかになり、日本国民はその事実に驚愕することになる。この小笠原事件は、ブッシュの対日観に長いこと影を落としたといわれている。敵国の元首であった昭和天皇の葬儀に参列したが、ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。またブッシュ機を撃墜した砲台だが、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった。