4. 南アフリカ
国際社会の酷評と経済封鎖の続く中で1994年、アパルトヘイト(人種差別政策)撤廃を図った結果、新しく制定された国旗。「レインボー・フラッグ(虹の旗)」と呼ばれ、世界の国旗で初めて6色が使われるデザインになりました。
「アフリカの飢餓」が叫ばれた1984年、私が代表幹事をしていたインドシナ難民を助ける会(相馬雪香会長)は、11月24日の創立5周年記念総会を機に、団体名から「インドシナ」を削除し、世界の難民や困窮者への支援のためにと活動の幅を大きく広げました。早速、南部アフリカのザンビアとジンバブエに事務所を開きました。それにはその後、国会議員になった藤田幸久くん(現・民主党所属参議院議員、財務副大臣)も大いに折衝にあたってくれました。
また、諸団体を糾合し、森繁久弥さんを会長に、私が実行委員長になって、「アフリカに毛布をおくる運動」を展開、173万枚の毛布と12億円を超える資金を寄せていただき、12カ国で毛布を配るなどをしました。
時の安倍晋太郎外相(後の安倍晋三首相のご尊父)に働き掛け、安倍外相とともに上記2各国とモザン-クほかを公式訪問しました。日本の外相がアフリカ大陸を訪問したのは、多国間会議でナイロビを訪問した例はありましたが、単独で歴訪したのはこれが初めてでした。
歓迎の「日の丸」を掲げたザンビアの首都ハラーレで、焼酎を酌み交わしながら4時間半、安倍外相とほとんど二人でお話ができました。ご指導いただいたことも多いし、思わず吹き出してしまうような失敗談も今では懐かしい思い出です。
アフリカ南部に数回訪れましたが、往復ともその多くが南ア経由でした。当時の南アでは日本人は「特別白人」という具合に扱われていましたが、どうしてどうして。入国審査は最後ですし、レストランでもトイレの前の席、ホテルでは屋根裏部屋のようなところに入れられました。英国のカントリーサイドを思わせるヨハネスブルクの郊外でしたし、主要都市はなかなか洗練されていましたが、映画「遠い橋」の世界そのものでした。
黒人が主導権を握るようになってから、一時は、オーストラリアやカナダなどへの白人移住者が続出しましたし、治安も酷いものでしたが、経済も秩序も回復し、2011年にはサッカーW杯を開催という「大業」も無事、達成しました。
依然さまざまな問題を抱えているとはいえ、今や南アはアフリカの指導的国家です。同じく6色の国旗である新興国・南スーダンは深刻な状況にあり、自衛隊からも恒常的に部隊の派遣が続いています。
「アフリカために献身しようという政治家が少ない」「日本全体のアフリカへの関心を高めたい」、3日前、ユーラシア21研究所を訪ねてきた旧友・池上清子日大大学院教授(日赤常任理事、前国連人口基金日本事務所長)、二人の認識は一致しました。アフリカと何かをする場合、南アは本当に重要な国です。この休暇中、あらためてアフリカの歴史を勉強し直しています。