お菓子の好きなパリ娘

まず、歌詞を書きましょう。

♪お菓子の好きなパリ娘
二人そろえばいそいそと
角の菓子屋へ 「ボンジュール」

選(よ)る間(ま)も遅しエクレール
腰もかけずにむしゃむしゃと
食べて口拭く 巴里(パリ)娘

残る半ばは手に持って
行くは並木か公園か
空は五月の みずあさぎ

人が見ようと笑おうと
小唄まじりでかじりゆく
ラマルチーヌの銅像の
肩で燕の宙返り

かの有名な「お菓子と娘」(西條八十作詞・橋本國彦作曲)。その歌詞にラマルチーヌが出てくることを知りました。19世紀中葉のフランスの詩人で政治家の名前です。この菓子、もとい歌詞を最近まで知らなかったという、わが教養の低さを再確認したというべきか、きっと、秋田の田舎で育った私は「ボンジュール」も「エクレール」も「ラマルチーヌ」も、何も知らずに歌っていたということなのでしょうね。

それにしてもこの『お菓子と娘』、すばらしい童謡ではないですか。
特に、私にはこの歌詞が実にすばらしいと思えるのです。日本語の詩の中にフランス語、「パリ」より「巴里」が素敵じゃないですか。エクレールはもちろんエクレアのこと、ケーキが苦手な私でも、これだけはいただきます。

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そういえば、「のだめカンタービレ」の映像にも、エクレアを「むしゃむしゃと食べて口拭く」、パリでの「のだめ」が出てきましたね。この歌を意識しての演出だったのでしょうか。

歌詞の最後のラマルチーヌ、実は、この人あっての「フランス三色旗」(トリコロール)なのです。

「トリコロール」を論ずるときには、その前にもう一人、フェルディナン・V・ウジェーヌ・ドラクロワ(1789~1863)を挙げておかねばなりません。フランス大革命の年に生まれたこのロマン派の代表的な画家。実は、「会議は踊る」で有名になったウィーン会議(1814~15)のフランス全権代表だったタレーラン外相が実の父親だというのが最近ではほとんど定説になっているようです。

これはそのドラクロワの「民衆を率いる自由の女神 ― 1830年7月28日」。この年、ナポレオンの凋落から約15年ぶりに「トリコロール」が復活したのでした。その間は、ブルボン王家の白旗がフランスの国旗でした。

この絵画はドラクロワの肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたと聞いたことがあります。1960年代末に初めてそれを手にしたとき、さすが「文化の一等国フランス」と、いささか時代がかった感激を味わったことを覚えています。


写真師ナダールによるドラクロワの肖像

1830年の「七月革命」で「国民の王」と唱えて玉座についたオルレアン公ルイ・フィリップは、民主勢力との融和を図って「三色旗」を採用しました。ドラクロワが代表作『民衆を率いる自由の女神』を画いたのはこの時(1831年)のことです。「三色旗」は、爾来、一貫してフランスの国旗の座にはあります。

ただ、幾度か危機がありました。特に1848年の「二月革命」の時には、「三色旗」を掲げる共和派と「赤旗を!」と叫ぶ社会主義を支持する過激派との厳しい対立が起きました。

しかし、この第二共和制を最終的に確立するにあたり大きな貢献をしたアルフォンス・ド・ラ・マルチーヌ(1790~1869)は「赤旗はシャン・ド・マルス広場を一周しただけだが、<三色旗>は栄光と祖国の自由の象徴として世界を一周した」との、いかにも詩人らしい、歴史に残る名セリフをはいて、過激派の要求を斥けたのでした。


フランスロマン派の代表的詩人で七月革命の指導者となったラ・マルチーヌ

ちなみに、ラマルチーヌは,フランス・ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれる人。1820年、若い人妻ジュリーへの思慕を詠った『瞑想集』(24篇)で一躍注目され、続いて『新瞑想詩集』『詩的的で宗教的な調べ』などを発表した著名な詩人です。

大作曲家フランツ・リストの交響詩の中で有名な『前奏曲』は、「人間の生涯は死への前奏曲に過ぎない」という内容のラマルチーヌの同名の詩を音楽にしたものです。ラマルチーヌはルイ18世の知遇を得、イタリアに駐在する外交官であったこともあります。

ラマルチーヌは1830年の「七月革命」を機に、詩作を続けながらも政治の中心舞台に転じました。1833年には代議士にも当選しました。その立場は死刑や奴隷制度の廃止を唱える等理想主義的で、政治的には王党派と社会主義派の中間的な穏健思想を持っていたといわれています。作品にはこのほか、小説『オリエント紀行』、歴史書『ジロンド党史』などがあります。

1848年の「二月革命」では、臨時政府の外務大臣となったのですが、同年12月の大統領選挙でルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)に大敗し、1851年の大統領によるクーデターで政界を引退したのでした。

島野盛郎氏に拠ればラマルチーヌは「政治に手を出して失敗しましたが、理想に活きた甘美な抒情詩人としての生命は永遠」だということです。
ところで、続く「叔父・大ナポレオンの栄光」を背負うルイ・ナポレオンの時代(第二帝政)、フランスはもちろん「三色旗」を継続しました。
パリ・コミューン(1871年)の旗も「三色旗」。そして次の第三共和制の時代にも「ブーランジェ事件」(1880年代)とか「ドレフュス事件」(1897~99年)といった、共和派、王党派、右翼などが絡む国家の屋台骨を揺るがすような事件が相次いだのですが、フランス社会はそれを乗り越え、「三色旗」はそのまま受け継がれて、今日に至っています。

すなわち、大革命期に始まった「三色旗」は、ルイ18世、シャルル10世兄弟による「第二王制時代(1815~30年)」の白旗の時代を除き、今日までフランスの国旗だったことになります。「赤旗はシャン・ド・マルス広場を一周しただけだが、<三色旗>は栄光と祖国の自由の象徴として世界を一周した」…いいですよね、この決めセリフ。

ところで、歌詞にある「ラマルチーヌの銅像」ですが、生まれ故郷のブーローニュのマコンには今もあるのですが、「VOL.03 日本抒情歌 (解説)」によれば、パリの「ブルゴーニュの森近くの街角にあった」とありますが、私自身見たことがないばかりか、このあたりに詳しい駐日フランス大使館の友人に聞いても分かりませんでした。

「フランス三色旗」にとってドラクロワとラマルチーヌは忘れられない存在です。きょうはせめて、タレーランに随行して「ウィーン会議」に向った著名なシェフであるアントワーヌ・カレームの名前を採った目黒のお菓子やさんで、エクレールを求め、「お菓子の好きな東京娘」にでも捧げようかな。

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