勅許なきまま結んだ日米修好通商条約 – 林 復斎と岩瀬忠震


ペリー提督はこの31星の「星条旗」を掲げて1853年、浦賀に来航した。

マシュー・ペリー提督

ペリー提督を描いた版画(1854年頃)

マシュー・ペリー(1794~1858)提督が来日したのは1853年、カリフォルニアとアリゾナが州に昇格した直後で、米国旗「星条旗」は31星でした。アメリカの国旗「星条旗」は州が増えるごとにデザインが変わりますから、この人は独立当時の13星13条の「星条旗」から、自ら来日した時の31星の「星条旗」まで数えると、生涯、13種類の異なる「星条旗」と出会ったことになります。


『逆説の日本史』より。

阿部正弘

ペリーと幕府を代表して折衝したのは林 復斎大学頭(1801~59)がトップ。復斎にとっては父・述斎から家督を継いで間もない時期でしたが、漢文に通暁し、かねてその有能ぶりやとりわけ外国との交渉史に通じていたことが老中・阿部正弘らから評価され、町奉行・井戸覚弘ともに応接掛として任命され、横浜村で鋭意、交渉にあたりました。

交渉は漢文を用いて行われたため、日本側ではほとんど復斎の独壇場。既に国際情勢を理解していた復斎は日本が完全な鎖国を続けることは困難と考え、通商関係のことはさておき、最小限の付き合い、すなわち、外国(異国)船への薪水や食料の供給程度はやむなしと判断し、柔軟に対応したのでした。1854年3月31日、横浜村で日米和親条約が締結されました。日本文、漢文、英文の3つで作成されたのですが、日本文での署名者は復斎が筆頭です。しかし、日本側が相手国の言語である英文による条約原本への署名を拒否したため、国際法上の条約締結の体裁が整わず、また、条約には解釈のずれが起こった場合に依拠すべき正文を何語にするかもまとまらなかったことから米国側は困惑し、下田で再び交渉を行うこととなりました。その間、米艦隊は新たな開港地として予定されていた下田と函館を視察しました。

下田での再交渉の結果、1855年1月(和暦・安政元年12月)、①漢文版を廃して条約正文を日本語・英語・オランダ語の3つとすること(「右条約附録、エケレス語日本語に取認め、名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面合衆国と日本全権双方取替すものなり」)、②日本側全権が英文版へも署名すること、③下田・箱館の開港と米国人が遊歩できる範囲の画定などの使用細則、④批准書交換などその他の手順が13ヶ条下田追加条約(下田条約附録)にまとめられ、締結されました。復斎は幕末の最有力外交官として、大任を果たしたと評価できるでしょう。締結されたには当時の「星条旗」のコピーが了仙寺の宝物館にあります。

復斎について米側からは「55歳くらい。中背で身だしなみ良く、厳粛で控えめな人物」と評されています。復斎は後に『墨夷応接録』(墨夷はアメリカのこと)を遺しました。

しかし、ペリーの2回に亘る来航に際して、日本側には国旗がなかったのです。種々の論議の末(詳しくは、別項または、拙著『知っておきたい「日の丸」の話―国旗の常識・日本と世界』学研新書)「日の丸」が日本の総船印として制定されたのは、1854年7月9日のこと。老中・阿部正弘の決断によるものでした。もちろん、それ以前にも「日の丸」は対外的に用いられていました。仙台藩主・伊達政宗が派遣した支倉常長の慶長遣欧使節は、1615年1月30日にスペイン国王フェリペ3世に、同11月3日にローマ教皇パウルス5世に謁見しましたが、その際、伊達氏の軍旗である「日之丸大龍」を掲げていました。また、山田長政もシャム(タイ)で「日の丸」を用いていたという絵図が残っています。


ハリスと交渉して日米修好通商条約をまとめて署名した岩瀬忠震

1858年(安政5年)、幕府目付・岩瀬(林 復斎の甥)と下田奉行・井上清直は、和船に「日の丸」を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡りました。そして孝明天皇の勅許が無いまま、日米修好通商条約に調印・署名したのです。

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