きのう(10月11日)の22:00からNHK総合テレビの番組で、瀬戸内海を取り上げ、特に、那須与一をクローズアップしていました。私は帰宅直後でたまたま一部を眼にしたので、よく分かりませんが、福島県在住の齊藤秀昭さんという方から「これが日本の国旗のはじまりではないのか」という趣旨の質問をいただきましたので、所感を申し述べます。
平安時代末期の元暦2年2月19日(1185年3月22日)に四国は讃岐国屋島(現・高松市)で源平両軍による一大決戦が行われました。
平家物語の巻第十、屋島の合戦のさなか、この物語でもと国有名なシーンであり、その後、さまざまな文学作品や芝居になったりしており、いわば、全国民周知と言ってもいいような話です。
今でもおなじみの日の丸扇。
古くから、金地赤丸というのも多かった。
四国に逃れた平家は阿波や讃岐の豪族たちの離反にあい、いささか追い込まれた形で義経率いる源氏と相対します。
2月18日(旧暦)の夕暮れ時のことでした。岸辺に対峙する三百余騎の源氏の軍勢に向って、沖に並ぶ平家の軍勢の中から一艘の小舟が近づいてきます。舟には船頭と歳若い女房が一人乗っており、棒の先に「日の丸」の扇を挟み、源氏側に手招きします。
義経は後藤兵衛の推薦する「那須太郎資高が子、与一宗高」に扇を射よと命じます。一度は辞退するも、命に背くわけには行かず、与一は黒い馬に跨り、水際へ乗り出します。浅瀬を一段(約11m)ほど進みましたが、扇まではまだ七段ほど(約80m)もあり、波が立ち、風もあります。小舟は揺れ、扇はひらひらと風には従っています。
ちなみに、現在の日本の弓道競技における的までの距離は、近的弓道場で28m、遠的弓道場で60mです。ですから、かなり遠い距離ということになります。
与一が目を開くと、風がややおさまり、扇の的が落ち着いてきました。
そこで与一は鏑矢を取り、ひき絞ってひょうと放ちます。与一は小柄ながら腕力が強く、放った矢は風を切って飛んでいき、見事に扇の的の近くを射抜きました。
その見事さに両軍の将兵が大いに喜びました。
と、ここまで書いてくるとどうも、平家物語の雰囲気が出ていないことに気付きました。そこで、せめて今のクライマックスだけでも原文を紹介しましょう。古くは琵琶法師により、現代では講談師たちにより、千年間も語り継がれてきたこの話は、声に出すと実にいい気分になります。
矢ごろ少し遠かりければ、海へ一段ばかりうち入れたれども、なほ扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の、酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一 鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。
声に出して原文を読むとこちらまで興奮してきます。
しかし、那須与一は、軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』には雄雄しく描かれているが、『吾妻鏡』など、時代の史料にはその名は登場しないことから、学問的には与一の実在すら立証できていないのです。
したがって、史実とはいえないというのが今では通説とされているようです。しかし、当時、すでにこの「皆紅の扇の日出だしたる」扇があったということは確かでしょう。
以上、齊藤さんからの「これが日本の国旗のはじまりではないのか」という質問には正確に答えてはいないかもしれません。それは、当時はまだ国家という概念があいまいでしたし、まして国旗というものが必要であったのかも考慮しなくてはいけないからです。