ところで、『万葉集』には4,516首の歌がありますが紅葉を詠んだものはわずか1首です。
あしひきの山のかも浮かび行くらむ山川の瀬に (犬養)
これはまるで『紅葉』の曲の1番と2番を一つにしたような歌。これに対し、『古今和歌集』の1,000首余りの中、秋の歌は226首、その中で21首が紅葉を詠んでいます。それがまた申し合わせたように、「山の紅葉」と「川の紅葉」を歌っているのです。今度はあたかも、『紅葉』の曲の1番と2番を詠み分けたようです。
まず、「山の紅葉」。
神奈備の三室の山を秋ゆけば錦立ちきる心地こそすれ (忠岑)
見る人もなくて散りぬるおく山の紅葉は夜の錦なりけり (貫之)
秋風の吹きにし日より音羽山峰の梢も色づきにけり (同)
白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり (同)
誰がための錦なればか秋霧の佐保の山辺を立ち隠すらむ (友則)
吹く風の色の千草に見えつるは秋の木の葉の散ればなりけり (よみ人しらず)
思ふことなきてぞ見ましもみぢ葉を嵐の山の麓ならずば (藤原輔尹朝臣)
唐錦秋の形見や立田川散りあへぬ枝に嵐吹くなり (宮内卿)
霜のたてつゆのぬきこそよわからし山の錦の織ればかつ散る (関雄)
次ぎに「川の紅葉」。
ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれないに水くくるとは (業平)
もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅ふかき波やたつらむ (素性)
龍田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかや絶えなむ (よみ人しらず)
立田川嵐や峰に弱るらむ渡らぬ水も錦絶えけり (宮内卿)
ここに挙げた数首だけでみても、『紅葉』の歌詞のうち、「秋」「紅葉」「山」「麓」「流れ」「水」「錦」の言葉が重なっています。また、「下葉のこらず色づきにけり」は「裾模様」に通ずるものがあります。
また、『古今和歌集』には、『百人一首』にもある菅家(菅原道真 845~903)の「このたびはぬさもとりあへず もみぢの錦神のまにまに」ほかがある。これも「山の紅葉」を詠ったもので、同和歌集よれば「朱雀院(923~952、在位930~946、以後、太上天皇となって朱雀院に移った)の奈良におはしましける時に」手向山で詠んだものといいます。『古今和歌集』の時代には、紅葉を愛でる美学はとうに完成されていたということでしょう。
ところで、「松をいろどる楓や蔦」はもっぱら赤くなるが、「山のふもとの裾模様」を「赤や黄色のいろ様々に」描いてくれる植物は、ほかに紅葉になるのはサクラ、ナナカマド、イロハモミジ、タイワンフウ、ドウダンツツジ、ウルシ、ハゼノキ、ニシキギ゙、ハナミズキなど、また、都花のイチョウは置くとして、黄(金色)葉になるのはトウカエデ、カラマツ、ナラ、ブナ、ケヤキ、シラカバ、クスノキといったところ。中国東南部が原産のトウカエデは橙色になります。
最後に『小倉百人一首』から有名な猿丸太夫。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき
「三十六歌仙」の一人とされるこの作者、実は、実在の人物かさえはっきりしていません。梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』で、柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとしていますが、どうなんでしょうね。
カナダの国旗はとてもユニークで私は好きなのですが、カナダには日本のこんな文化があるのでしょうか。「錦秋」、やはり「日本の秋」はいいですね。