AK47、モザンビーク、そして松本馨先生②


イギリスの国旗

日本の国旗

モザンビークの首都はマプート。ポルトガルの植民地時代はロレンソマルケスという名で、アフリカ有数の良港とされていました。古色蒼然とはしていましたが、伝統あるこの町一番のホテルに泊まり、インド洋から登る太陽の美しさに感動したことがあります。

先の大戦中、ここで、日本とイギリスからの交換船が出会い、接舷したギャングウエイを、ともに不法逮捕された松本馨・レッドマン両氏が同時に左右から渡り、途中で固く握手、ここから二人の友情が始まったのです。

実は、二人は日英相手国の大使館でともに参事官の地位にありました。ところが日本の特高は東京・半蔵門の駐日英国大使館に踏み込み、スパイ容疑でレッドマン参事官を逮捕したのです。ロンドンでは、その報復として、松本参事官が拘束されたのです。戦前は京城大学の教授だったのですが、外務省に徴用されてロンドン勤務となっていたのです。

レッドマンさんはかなりひどい目にあったようですが、松本先生(私の大学院時代の指導教授)は刑務所長がケンブリッジの同級生だったこともあり、たいそう、厚遇されたそうです。先生はその後、バンコクで再び日本大使館の参事官となり、終戦でシンガポールに抑留され、英仏独語に精通していることから、通訳として最後まで抑留され、しかも、囚人としてひどい目に遭ったと何度も聞かされました。

「復員後、東大の1年後輩が早く戻って教授になっており、やむなく、東京藝術大学で憲法学の非常勤講師になったが、そんなもんで食えるわけがない。そこで、趣味の剪定の技術を活かして、印半纏を着、植木職人として汗水流してはたらいたんだよ。そしたらね、あるとき、高い木に登っていたら下から、『松本先生!』と叫ぶ声がしたんだよ。見ると早稲田の吉村正先生(政経学部長)。あわてて剪定鋏を落としてしまい、危うく一命を損なうところだった。それで早稲田に招かれたんだ」。

大学院の終了間際になり、と突然、松本先生からお話がありました。
「今回、吉村先生が早稲田の総長選挙に敗れ、東海大に政経学部を開設、移られることになった。以上の経緯から言って、私は断るわけにいかんのだ。キミたち(といっても大学院のゼミ生3人)もいっしょに移るなら付いて来なさい」。申し訳なかったのですが、神奈川県平塚市の東海大学は、私にとってあまりに遠い場所に感じられ、そのまま早稲田の大学院に残ったのでした。

レッドマン氏は戦後、再び日本大使館で長く勤務され、離日に際しては早稲田大学小野梓記念講堂で講演、松本先生が司会兼解説・一部通訳をされました。

ところで、モザンビークに話を戻しますが、内戦終結後はポルトガル人を閣僚にも加えたりして秩序を回復、好調な経済成長を続けることが出来ました。しかしその反面、V/AIDSなど深刻な感染症の問題があります。

アンゴラと並ぶ旧ポルトガル領アフリカだったことからポルトガル語諸国共同体の一員んであり、かつ、隣接するタンザニア、マラウイ、ザンビア、ジンバブエ、スワジランド、南アフリカの全てが英語圏の国家であるため、1995年から英連邦にも加盟しています。

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