講和条約締結時にサンフランシスコの街頭に「日の丸」が

産経新聞は【昭和正論座】として往年の「正論」のうち、秀逸なものを連載している。2月2日は1981年当時、平和・安全保障研究所理事長だった猪木正道元防衛大学校校長(京大名誉教授)の論考を掲載している。いうまでもなく、猪木先生は高坂正尭、矢野暢、西原正、木村汎(順不同、敬称略)といった著名な論客の直接の師であり、旧臘逝去され、来たる2月19日、西原正平和・安全保障研究所理事長(元防衛大学校校長)が代表世話人となって「偲ぶ会」が開催され、生前、特段のご指導をいただいた私もご案内状をいただいた。参加させていただく。


当時発行された80円の記念切手

猪木正道先生

今回掲載されたのは同年7月29日に産経新聞に掲載された「主権・独立と首相の指導性 ≪歴史に責任負うと一人署名≫。

長文なので、一部を割愛して紹介したい。

間もなくサンフランシスコ平和条約の30周年記念日が到来する。対日平和会議は、サンフランシスコのオペラ・ハウスで、1951年9月4日午後7時の開会式にはじまり、同8日午前10時からの調印式で終わった。

平和条約には吉田首席全権のほか、5人の全権が調印したが、(同日に場所を変えて調印した)日米安全保障条約には吉田首相だけが単独で署名した。歴史に対して自分一人が全責任を負うという決意の現れである。

サンフランシスコ平和会議は、ヴェルサイユ会議とは全く性格を異にしている。ヴェルサイユでは戦勝国だけが集まって1919年1月から5月まで交渉と調整とを重ねた後、できあがった条約案を戦敗国のドイツに突きつけ、イエスかノーかを聞いた。ドイツは戦争の責任をドイツ一国に押しつけた条約案を受諾することを拒否したけれども、軍事的に抵抗する余力がなかったから署名せざるをえなかった。

“押しつけられた平和条約” “脅迫にもとづく意思表示”といわれたのも無理はない。ヒトラーが14年後に政権を奪取できたのは、この“押しつけ”と“脅迫”の結果といっても過言ではあるまい。

これに反してサンフランシスコ会議は、ダレス特使が東京、マニラ、キャンベラ、ウェリントン、ロンドン等一万マイル以上も航空機で飛びまわってまとめあげた条約案に調印するための会議にほかならなかった。だから米国のアチソン国務長官は、議長として各国代表に意見の陳述だけを許し、いささかの修正をも認めなかった。どんな小さな修正でもいったん認めると、もっと重大な修正を封ずることができなくなるからだ。

米国が英国と協力して、サンフランシスコ会議を右のように運営したのは、いうまでもなくソ連の妨害工作を排除するためであった。ソ連は日本が自由陣営に組み込まれてゆくのを阻止するため、サンフランシスコ会議を失敗に終わらせようと全力を挙げた。自国のもっとも優秀な外交官であるグロムイコを派遣して、アチソン議長の議事進行を徹底的に邪魔させている。

しかしソ連の妨害工作に協力したのはチェコスロバキアとポーランドだけで、52の参加国中49カ国が調印した。日本代表は、一番最後に署名したが、それと同時にオペラ・ハウスのそとに、日の丸の国旗がスルスルと掲揚され、サンフランシスコの街頭にも日本国旗が数多く現れた。

サンフランシスコ平和条約は日米安全保障条約と不可分の一体をなしているが、両者の内容はドイツに対するヴェルサイユ条約に比べると、懲罰的な要素ははるかに少なく、和解的な色彩が濃厚である。

しかしサンフランシスコ条約はヴェルサイユ条約よりも寛大な内容だと喜ぶのは片手落ちといわなければなるまい。ヴェルサイユ条約に調印したころ、ドイツは国土のごく一部を占領されていただけで、ベルリンのドイツ政府は主権国家の政府であった。

これに反してサンフランシスコ会議当時の日本は全土を占領されており、独立を失っていた。サンフランシスコ条約が翌年の四月二十八日に発効した時、はじめてわが国は主権と独立を回復したのである。

昨年9月から10月にかけて、私はサンフランシスコを訪れ、このオペラ・ハウスを訪問する機会があった。名門サンフランシスコ交響楽団のコンサートホールの真向いにある壮麗な建造物だ。そこに立って日本の「戦後」を決定した「現場」で国旗「日の丸」と対露関係に思いをはせた。

猪木先生とは何度か日ソ専門家会議参加のためモスクワほかに同行させていただいた。「ソ連はサンフランシスコ講和条約に参加しなかった。だから、そのソ連と日本は領土の境界をはっきり決めていないし、両国の関係はこの条約に何ら拘束されない。しっかり説得して、独自に平和条約を結ばねばならない」。確信に満ちたお声が聴こえてくるようである。

来月に予定されている会議(ユーラシア21研究所、安全保障問題研究会、IMEMO=ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所の主催)には袴田茂樹新潟県立大学教授、森本敏前防衛大臣など12人で参加する予定である。猪木先生はじめ、諸先輩が拓いてくれたTruck Ⅱの道を、しっかりと踏まえつつ、モスクワに向かう覚悟である。

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