カンボジアの国旗はいつの時代にもアンコールワットが「主役」。これぞ堂々たる世界遺産。1969年以来、何度か訪れる機会があったが、いつみても往時の栄華が偲ばれる、すばらしいもの。民族の誇りが、政治の激流にあっても、国旗の周辺的デザインの変更があっても、これだけは不動である。
それに比べ、長嶋の国民栄誉賞は人気先行で、記録への配慮が足りないのではないか。個別にはもっといい記録を残した選手がたくさんいるのではないか。世界最多本塁打の王が同賞第一号になったのは納得、今、なぜ長嶋なんだと、このアンチ巨人、長嶋嫌いは今回の受賞に納得できない。ま、ここはそんな話の場ではないので…。
閑話休題(それはさておき)、1632(寛永9)年、肥後の武士・森本右近太夫一房は父母の菩提後生を祈念し、そのアンコールワットに仏像4体を献納し、正面中央やや右よりの柱に次の一文を書き残している。アンコールワットを祇園精舎と思い込んでいたようだ。
以前、私のブログ(昨年3月にシステムが変わり、IT障害者である私はついてゆけなくなり、遺憾ながら、かつ、悔しい思いをしながら、大いに怠けています)で、アンコールワットの「落書き」について書いたところ、その直後に同地を訪問したYさんから、「落書き」を再確認したとのお知らせがあった。もし、他の方最近、この「落書き」をごらんになった方がおられましたら、ご一報を。なにはともあれ、その内容である。
寛永九年正月初此所来ル生国日本
肥前之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ心ニ為千里之海上ヲ渡一念
之儀念生々世々娑婆寿世之思ヲ清ル者也
為其(一字欠ける)仏ヲ四骵立奉物也
摂州北西池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是ヲ書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母者明信大姉為後世二是書物也寛永九年正月三十日
右近太夫の父・儀太夫は、肥後藩主・加藤清正の臣で、「朝鮮征伐」にも加わっている。松浦静山の『甲子夜話』によれば、右近太夫は、熱心な仏教徒で、前年の加藤家断絶によって、肥前の松浦家に仕えたもののようだ。静山は「清正ノ臣森本儀太夫ノ子宇右衛門ト称ス(中略)、此人嘗テ明国ニ渡リ夫ヨリ天竺ニ往キタルニ(中略)、夫ヨリ檀特山ニ登リ祇園精舎ヲモ覧テコノ伽藍ノサマハ自ラ図記シテ携還セリ」と書いている。
1969年、私が初めてアンコールワットを訪れた時には「落書き」はかなり鮮明でした。しかし、その後、ポル・ポト時代に消されたという話を聞き、1994年に確かめに行ったが、森本右近太夫のものは見つけることは出来なかった。私は専門家ではないが、以前、拙著『にっぽん国際人流志』(自由国民社)で、紹介したことがあるし、実際に見た者の務めのような気がするので、ご紹介させていただきたい。
この墨書の裏側や近くには、肥後の木原屋嘉右衛門夫妻、肥前の孫右衛門夫妻などが参詣した旨も書き込まれている。
寛永8年から翌年にかけて肥前・松浦家の商船がカンボジアに渡航しているので、そのときにこれらの人々が便乗していたと見る説もある。
なお、本件について専門的なものとしては、藤岡通夫、恒成一訓『アンコールワット』、宗谷真爾『アンコール史跡考』などがあるので詳しくは参考にされたい。
ところで、落書きはいつの時代にもあったようだ。古代ローマの時代にはどの町にも落書きがみられたようで、ヴェスヴィオの噴火により埋没したポンペイの遺跡でも見ることができるし、南米の古代文明期の落書きはグアテマラのマヤ遺跡に残っており茅葺き屋根の神殿や輿に乗った貴族などを描いた絵が発見され、史料として大事にされている。貴族までの受刑者を使用人を伴ったまま収容したという英国のロンドン塔をはじめ、世界各地の刑務所や収容所には随所に収容されていた者の落書き(石や漆喰に彫り込んだもの)が残されている。私もシベリアに強制抑留された日本人将兵の落書きを、1968年、イルクーツクの郊外で見たことがある。母への切ないメッセージのような詩文だったのが悲しく、切なく印象に残る。
広島市立袋町小学校が被曝建造物として校舎の保護・解体を進めていた中で、2000年8月、黒板の下などから当時の、避難した人の消息を伝える多くの伝言が発見され、切り取られた壁面などが保存・公開されている。
また、阪神・淡路大震災や東日本大震災では、行方不明者や尋ね人の情報が避難所として利用されていた公共施設の壁などにも書き記された。
落書きが多かった西ベルリン側の壁(ウィキペディアより)
総延長155キロに及ぶ「ベルリンの壁」にはストリートアーティストたちが接近できた西側の壁を自由に彩った。今ではその破砕された小石のような壁面が、観光客の土産として路上で売られている。