最後の帝国 ボカサ一世の中央アフリカ帝国

中央アフリカ共和国の国土は日本の約1.7倍だが、人口は約460万人。1960年の独立以降、クーデタや独裁を繰り返し、一時は帝政をしいたこともあるが、そのときさえ、国旗は変更されなかった。各種の鉱物資源に恵まれるが、政情不安から開発は遅れている。これを受けてバンギにあった日本大使館は2005年に閉鎖された。2012年末には国連の職員も退避した。

この国旗をデザインしたのはバルテレミー・ボガンダ(Barthélemy Boganda 1910~1959)。中央アフリカ共和国の政治家。

1946年にフランスの国民議会の議員、1949年に黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)を作り、同党の党首に就任。1958年に今の中央アフリカ共和国の地域がウバンギ・シャリとしてフランス共同体内の自治共和国となると、ダヴィド・ダッコが初代大統領に就任、自らは首相に就任し、国名を変更し、親族の小学校長を内相にしたり、医師のアベル・グンバを蔵相にするなど政権を身内で固めた。また、ボガンダは各植民地の分離独立を主張するガボンのレオン・ムバらと対立しつつも、フランスと友好関係の維持を図ろうと努めた。その連邦構想の範囲は赤道アフリカ諸地域のみならず、ベルギー領コンゴ(今日のコンゴ民主共和国)やルワンダ・ブルンジ、ポルトガル領のアンゴラまでをも視野に入れた大きな構想だったとされる。

しかし、その理想は、1959年3月29日、むなしく費えさった。ボガンダが首都バンギへと戻る途中、飛行機が墜落し、独立を目前にしてこの世を去った。

その後の中央アフリカの政情は不安定の見本のようなものだった。1965年12月にダッコの従兄弟で当時、軍の参謀総長だったジャン=ベデル・ボカサ中佐(バルテレミー・ボガンダの甥)による軍事クーデターが起こり、ダッコ政権が転覆。1966年1月、ボカサ中佐が大統領に就任、独裁政治をはじめ、1970年には終身大統領を宣言、1976年12月には、中央アフリカ共和国に帝政を敷くことを決定、中央アフリカ帝国となった。これまでのところ、これは史上最後の帝国である。

かくして、1977年12月4日、ボカサ大統領は2000万ドル(約65億円=国家予算の1/4)に相当する国費による贅を尽くしたナポレオン時代のフランス風の戴冠式を行い、中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世を称し、諸外国からは「黒いナポレオン」と蔑称された。


1970年、国賓としてルーマニアを訪問したときのボカサ1世

1974年から1981年までの7年間にわたってフランスの大統領をつとめたジスカール・デスタンは大統領在任中にサミット(先進国首脳会議)を開催(ランブイエ)し、このサミットが1970年代に西側諸国を襲った石油危機への対応をまとめたり、冷戦下にあって西側先進国の結束を高めるといった業績を上げた人物だ。フランスはそのボカサ皇帝を認め物資援助を続け、国際社会もそれに順応した。

例えば、ボカサは戴冠式に際し、国際儀礼で皇帝と同格とされる昭和天皇とイランのパーレヴィ皇帝を招待したが、「当然ながら」二人とも出席しなかった。ただし、日本政府は昭和天皇の名前で祝電を送っており、国号の改称を承認した。

しかし、1979年9月 同皇帝の外遊中にフランスが工作して、同政権を転覆、フランスに亡命していたボカサはジスカール・デスタンに働きかけ、政権奪還の支援を要請したが、はかどらず、業を煮やしたボカサはジスカール・デスタンへの贈賄工作を暴露するという挙に出た。このことによりジスカール・デスタンの人気は急落し、後に大統領になったシラクが離れ、大統領選挙でミッテランに敗れる一因となった。

その結果、中央アフリカは再び共和国となり、ダッコが大統領に復帰した。

2年後の1981年9月1日、今度はコリンバ国軍参謀総長によるクーデタが発生。ダッコ大統領はカメルーンに亡命した。

ところが、1993年の選挙でコリンバは落選し、今度はパタセが大統領に就任した。

2003年、新たにフランソワ・ボジゼが大統領に就任。2012年12月、反政府武装勢力CPSK-CPJP-UFDRが連合したセレカが、北部や東部の広い地域を掌握し、2013年3月、反政府勢力セレカは1月の和平履行をしなかったボジゼ大統領に対し21日から攻撃を再開。24日遂に首都を制圧。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出した。フランスが、首都バンギの空港を確保している。

反政府勢力セレカの主導者ミシェル・ジョトディアは、自らが暫定大統領に就任。3年後の選挙までチャンガイ首相が政権を担う。 だが、アフリカ連合はセレカによる首都制圧を非難、加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求めた。 今後、軍事介入が行われる可能性もある。

これだけのクーデタを重ねた国も珍しいが、それでもなお、中央アフリカの国旗はボガンダによりデザインされたまま、50年以上使われているというのはさらに珍しい。国旗のように国家が安定し、発展することを祈るほかない。

戴冠式には国際儀礼で皇帝と同格とされる日本の昭和天皇とイラン帝国のモハンマド・レザー・パフラヴィーを招待したが、二人とも出席しなかった(ただし、昭和天皇は祝電を送っており、日本政府も国号改称を承認している)。フランスは帝国を承認し、物資援助を続けた。だが、既に帝国は粛清による人材不足、赤字経済が重なり、崩壊への道を辿っていた。

1979年1月、反帝政の学生デモが勃発したが、ボカサはこれを武力鎮圧、およそ400人の死者を出した。この後、フランスも帝政打倒を画策、ボカサは新たなる同盟者を求めてリビアに向かった。その訪問中の9月20日、フランス軍の無血クーデタが起き、帝政は廃止され、ボカサは亡命を余儀なくされた。ボカサ元皇帝は1986年に帰国、1987年に死刑を宣告されたが、1993年に釈放されている。

なお、最近の中央アフリカ共和国の不安定な情勢については3月26日付朝日新聞が次のように報じている。

アフリカでは通常、こうした不安定な状況ではしばしば国旗が変更されるが、これまでのところ、国旗の変更はない。それには政権を転覆した側の安定的な政治運営やこれまでに国旗が定着していることなどの理由が考えられる。それにしても、今後の動向によっては、国旗の全面的な変更がありうるとして、注視する必要があろう。

中央アフリカで反政府勢力が首都バンギを制圧し、大統領が国外脱出する事態になっている。金、ダイヤモンドや豊かな自然に恵まれながら、政情不安がじゃまして世界の最貧国から抜け出せない。アフリカの真ん中にある国の混乱は、地域の不安定の火だねになる可能性もはらんでいる。

大統領は国外脱出

現地からの報道によると、反政府武装勢力の連合体「セレカ」は24日、大統領府を制圧したが、ボジゼ大統領はその前に脱出したという。周辺国に出たとの情報もあるが、所在は確認されていない。

セレカ側はバンギで「歴史の新しいページを開いた」と宣言した。旧宗主国のフランスのラジオ局RFIによると、リーダーのジョトディア氏が自ら暫定大統領に就任し、3年以内に選挙を実施すると発表。選挙まではチャンガイ首相が政権を担うとしている。ただ、セレカ内部にはジョトディア氏の暫定大統領就任に反対する勢力もあるといい、情勢は不透明だ。

セレカは、訓練と装備の不足が指摘される政府軍を力で圧倒。さらに、政府軍の訓練のために駐留していた南アフリカ軍とも交戦し、同軍兵士13人が死亡した。バンギでは民家や商店への略奪が相次いでおり、セレカは夜間外出禁止令を出した。

反政府武装勢力側は2007年以降に政府と和平を結んだが、昨年12月から一部が武装蜂起。さらに、今年1月にも政府側と新たな和平案に合意したが、約束が守られていないとして攻撃を再開した。

フランスは約250人の部隊が中央アフリカに駐留しているが、仏市民や外交施設の保護のためにさらに数百人を増強した。仏軍がバンギの空港を掌握したとの情報もある。

仏側はこれまで政権維持のための軍事介入には否定的だった。今年1月に軍事介入したマリへの対応とは対照的に、今のところ目立った行動には出ていない模様だ。

停戦目指した譲歩、あだに

1カ月前に訪れた中央アフリカは、もろい和平合意の中にあった。セレカは首都バンギから75キロに拠点を構え、制圧した地域をそのまま保っていた。

昨年末から今年初めにかけ、中央アフリカとマリでほぼ時を同じくして反政府勢力が首都に迫った。両国政府とも旧宗主国のフランスに支援を要請した。フランスはマリに本格的に軍事介入する一方で、中央アフリカに対しては在留のフランス人を守るための支援にとどめた。

今回、国外脱出したとされるフランソワ・ボジゼ大統領は今年1月、首相の更迭、国防相を含め5閣僚をセレカから迎えるなどの条件をのんで和平合意を結んだ。ボジゼ氏は2月にバンギの大統領府でインタビューに応じ、「状況はとても悪く、切迫していた。だから合意のサインを急いだ。いくつもの要求をのまざるを得なかった」と言った。

「周囲のコンゴ(旧ザイール)、チャド、スーダンなどで紛争が発生し、そこにかかわった連中が入り込んで問題をおこした」とボジゼ氏は語った。

混乱の原因は周辺国の政情不安にあり、民意を反映したものではないと主張したかったようだ。だが、反政府勢力による攻撃はボジゼ氏が政権についた03年後まもなく始まり、政権の腐敗などの批判に乗じていくつもの集団を集めてボジゼ氏退陣を迫った。同国にはクーデタが繰り返されてきた歴史があり、ボジゼ氏自身、クーデタを介して政権についている。

頼りの軍は昼から酒

大統領退陣以外の要求をほぼのまされ、セレカが首都から車で1時間の距離に居座る。その不安定な均衡を保つためにボジゼ氏が頼みにしたのは、周辺諸国から停戦監視のために派遣された中部アフリカ多国籍軍(FOMAC)だった。

首都バンギから75キロ離れたダマラ近くに、セレカと政府軍との間の停戦ラインが設けられていた。ダマラを訪れた時、FOMACと政府軍兵士が町の全域を固めていた。停戦ラインを越えてセレカの支配地に入ることはできなかった。

だが、FOMACも政府軍も昼間から軍服姿のままで酒を飲んでいた。政府軍の検問所では「通行料」を要求された。士気が高いとは言い難い状態だった。

バンギにも軍服姿が数多くいた。配置についているのではなく、市民に交ざって雑然と軍服が目立っていた。市内をパトロールしているのはFOMACとは別に派兵された南アフリカ軍の兵士だった。

アフリカの真ん中に位置する国の政情不安が、周囲に与える影響は小さくない。ウガンダの反政府勢力が中央アフリカ東部に逃げ込んでいると伝えられる。ボジゼ氏が語ったようにコンゴや南北スーダンなど、不安定要因を抱える国が国境を接している。

中央アフリカには、ゾウやサイの密猟のために重武装した盗賊団が入り込んでいる。国境沿いに国立公園や保護区を抱えるカメルーンやコンゴ共和国にも影響が及んでいる。

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