国旗のある風景 – <番外編> 祖国に「日の丸」はなかった

「昭和21(1946)年4月29日の天皇誕生日に、私達を乗せた引揚船のLST-人間を乗せる船ではない。上陸用舟艇 -は佐世保に入港した。久しぶりに見る母国の緑に映えてひるがえる旗は、日の丸ではなくて星条旗だった。「国破れて山河あり」の感慨を深くした」。

これは私が高校生の時以来師事をし、私淑してきた恩師・橋本祐子(さちこ)先生の著書『私のアンリー・デュナン伝』(学習研究社、1978)の一節である。橋本先生(私たちは「ハシ先生」と呼ぶ)は1909年上海で生まれ、1930年、日本女子大学英文科を卒業、その後、大蔵省在勤の橋本昂蔵氏と結婚され、シンガポールや北京に在勤する夫と行を共にし、戦後、引揚げられた。その引揚は「北京を発ってから東京の我が家 – に辿り着く我が引揚行は苦難の旅、私が心身を試す苦行の23日間だった」とある。


「ハシ先生」が佐世保に引揚げた1946年に見た「星条旗」はこの48星のものであった。
このデザインはアリゾナとニュ-メキシコの州昇格に伴い1912年に改定されたもので、アラスカの州昇格によって1959年に49星になるまで続いた米国旗である。49星の「星条旗」は、1年後、ハワイの州昇格で50星となった。その直後に、「ハシ先生」の指示で、各国赤十字社の協力を得て、各国旗を蒐集した時、米国赤十字社は50星になったその日に米国上院に掲げられた「星条旗」を寄贈してくれた。その旗は今も日赤本社の倉庫にある。この作業は私が国旗研究をライフワークにする端緒にもなった。

ハシ先生

佐世保に帰国した時の「星条旗」の衝撃と屈辱については直接、先生から何度も聞かされた。当時、マッカーサーのGHQ(連合軍最高司令部)の命令により、公的に「日の丸」を掲揚することは禁じられていたのだった。

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