インドの国旗物語③ 靖国神社遊就館の絵がおかしい

1921年、ガンジーは、インド国民会議に対して、スワラジの象徴として最初の旗のデザインを提案した。それは白・緑・赤の横三色旗の中央に、スワラジ、スワデシの象徴である糸紡車を配したものであった。地色である横三色旗はまさにブルガリアの国旗であった。

1931年、国民会議派は新たなスワラジ旗として、現在のインド国旗と同じサフラン・白・緑の横三色旗の中央に、紺色の糸紡車を配したものであった。

1945年の日本の敗戦を経て、1947年8月にインドはインド連邦として独立することとなり、このときの制憲議会で国旗をどうするかの議論が行われた。ラージェーンドラ・プラサード、 アブル · カラム · アザド、チャクラバルティ・ラージャゴーパーラーチャーリア、ビームラーオ・アンベードカルらから成る国旗制定委員会は6月23日にスワラジ旗を元にした新国旗を策定したが、それはずいぶんスマートなデザインになり、ガンジーは不満であったが、同委員会の決定を承諾し、7月22日、制憲議会は満場一致で現在に至るこのデザインの採用を決定した。

国旗のサフラン色はヒンズー教徒を、緑はイスラム教徒を、白は仏教と、シーク教徒、ジャイナ教徒、キリスト教徒など、そのほかの少数宗教徒と全体の寛容・和解を表しているとされる。


靖国神社遊就館に奉納されているインパール作戦の絵
「日本軍と共に勇躍前線に進出するインド国民軍」。
原田重穂画。

インド国民軍総司令官チャンドラ・ボース。
背景にはチャルカを描いたインドの国旗が垂直掲揚されている。

日本軍とともにインドへ進軍するインド国民軍。
この写真では掲げている旗は確認できない。

1907年以来のインドの国旗

インドで関係筋から取材し、調査したところによれば、①既に権力は実質的にガンジーからネールに移っていた、②糸紡車はいかにも貧相でネールは品のいいデザインを好んだ、③ガンジーのスワラジ、スワデシの考えに政策的にこれを疑問とする声が上がっていた、④糸紡車では国旗の裏表で印象が違う、⑤法の輪は高尚な哲学を含んでおり、古代からの文明を持つインドにふさわしい、⑥法の輪(チャクラ)から糸紡車(チャルカ)を連想することが出来る、⑦国旗のシンボルは特定の共同体や運動を代表するものであってはならない、といった理由で、チャクラを配することとなった。

ガンジーはチャクカの採択による、チャルカの排除には不服であったが、最終的にはこれを受け入れた。

したがって、私は原田重徳氏の絵は、事実を描いたのではなく、今のインドにつながるといった意味をこめて、あえて2年後に出来た国旗を、INA(インド国民軍)の将兵が頭上に掲げたように、史実を変えてでも絵に描いたのではないかと思う。

それはそうと、靖国神社では遊就館の見学者のために、さまざまなパンフレットなど資料を用意して便宜を図っているのがいい。

インパール作戦についても、以下のように、なかなかよくできたものを用意している。これがないと、さっきまで私の研究所にいた早稲田の3年生のように、何もしらないままであろう。それだけに、このインドの国旗については何らかの説明をつけるべきではないかと思う次第である。

インパール作戦とインドの独立

昭和16年12月8日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。開戦初期、日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作戦等で戦果を挙げたが、昭和17年6月のミッドウェー海戦において、航空母艦の大半を失い、その後戦況は逆転の様相を呈してきた。

その時、イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を要請してきた。日本軍はインド国内の反イギリス独立勢力の支援と、混迷する戦局の打開を計るべく、第33師団「弓」、第15師団「祭」、そして第31師団「烈」の三コ師団によりインド国内の要衝インパールの奪取を目指した。作戦はこの三コ師団の他に、チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵一万五千人からなるインド国民軍(INA)も勇躍参加した。

3月から始まった作戦は、河幅600Mにも及ぶチャンドウィン河の奇襲渡河、そして2000Mのアラカン山脈の峻険を越えるという最初の難関を克服し、「弓」の進撃にあわせ、「祭」の挺進隊はミッションを占領、インパールコヒマ道を遮断、さらに「烈」もコヒマを占領し、コヒマ、モイランそしてインパール周辺にまで日本軍は進出した。

インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動をともにして、コヒマとモイランに進出。

遂に念願のインドの三色旗をインド国領土内に翻したのである。

しかしイギリス軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により潤沢な補給を行い、反攻を加えてきた。日本軍は食料弾薬ともに杜絶し、その消耗が極限に達した雨季の6月、ついに撤退を余儀なくされた。連日の豪雨の中の惨憺たる撤退は日本軍に多くの戦死・戦病死者をだすこととなった。

戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このことがインドの民衆の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイギリスも事態収拾困難と考え統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか2年後の昭和22年8月15日に達成された。

それぞれの国と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った、日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私たちは忘れることは出来ない。

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