亡命者の受け入れは頭が痛い – 日本にも送還の歴史が

亡命者の受け入れは、人道上、できるだけ行われるべきだが、個々のケースにあたっては法秩序の上に加え、国益上、それができない場合なしとしないのは、我が国の歴史を見ても何度かある。今回のスノーデン元CIA職員の場合でも、自国の対米関係を優先せざるを得ない国は多数ある。キューバやエクアドルさえ、容易には受け入れとはいくまいし、スイスやアイスランドまた然りであろう。


1890~1920年のグエン(阮)王朝時代の旗であり、1954~1975年のベトナム共和国(南ベトナムの国旗。
3本の線は、トンキン(東京)、アンナン (安南)、コーチシナ(交趾支那)の3地方を表す。

現在のベトナム社会主義共和国の国旗。
但し、国名は近くベトナム民主共和国となる可能性も。「金星紅旗」。

クオンデ(左)とファンボイチャウ

ところで、我が国の歴史においても、懐に入った「窮鳥」を外圧で放出した事例はいくつかある。詳しくは拙著『難民 ― 世界と日本』(日本教育新聞社)を参照されたい。先日も日本テレビのディレクターや朝日新聞国際報道部の記者がこれを参考に連絡をしてきたので、出演もし、取材にも応じた。

日本が送還した最も有名な例はベトナムからのクオンデ侯、ファンボイチャウ(潘佩珠)ら約100人の人たちであろう。日露戦争に勝った日本に学ぼうという「東遊(トンズー)運動」を起こして積極的に日本に留学(という亡命)をして反仏運動を進めようとしたが、フランスからの圧力で上海に送還した。チャウは1925年、上海でフランスの官憲によって逮捕され、ハノイに送られ、終身刑を宣告される。しかし、ベトナム世論の反発が大きく、恩赦。中部ベトナムのフエで軟禁されたまま没した。

クオンデは滞日中、犬養毅、大隈重信、宮崎滔天、頭山満らと親交を重ね、たが、1909年10月30日、神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」で上海経由香港に向かうことになった。日本が1907年の日仏協商で日露戦争の国際返還にフランスの協力を得るためにはやむを得ない選択だったとされる。上海では応対した総領事代理・松岡洋右(後の外相、29歳)がクオンデの身柄保護に奔走、上海脱出に成功、欧州を経て、1915年、フランスが第一次世界大戦のさなか日本に戻り、外国からの亡命者に特段の世話をしたことで知られる新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに身を寄せたのであった。

クオンデにはその後、日本がベトナムからフランスの勢力を駆逐したときなど帰国の機会が幾度かあったが、結局、第2次世界大戦の終戦を日本で迎えることになった。結局、運命が彼にそれ以上味方する機会はなく、1951年、東京・日本医大病院で肝臓癌により逝去した。

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