1899年の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第32条で、「交戦者の一方が他方との交渉を行うため、白旗を掲げて来た者を軍使と規定する。軍使、及び、それに随従する喇叭手、鼓手、旗手、通訳は不可侵権を有す」とある。
日章旗
帝国陸軍御国旗
1870年5月15日、太政官布告第355号で制定。
この写真は太平洋戦争開戦から焼く2ヶ月、1942年2月、シンガポールの戦いにおけるイギリス陸軍極東軍司令官・パーシヴァル中将の降伏。ユニオン・ジャックと共に白旗を掲げ、日本陸軍の軍使に導かれ降伏・休戦交渉に赴く様子。
英国旗「ユニオンジャック(ユニオン・フラッグ)」
山下・パーシヴァル会談
シンガポール市内を行進する日本軍。
頭上のビルに掲揚されているのは「日の丸」か。
1942(昭和17)年2月、日本陸軍は果敢に英領の要衝シンガポールを攻め、13日には連合軍は追い詰められた。英軍の上級司令部はパーシヴァル中将に降伏によって、非戦闘員の被害を最小限にするよう指示した。
14日、連合軍部隊はなおも抵抗を続け、非戦闘員100万もが避難している地域が砲爆撃を受け、被害は増大した。特にマレー半島からの水の供給がストップする危険が迫る。そうした中、翌15日の朝、日本軍が連合軍の最終防衛線を突破した。パーシヴァルは部下の各指揮官と協議した末、自ら軍使となり、フォード自動車工場に赴き、午後5時15分ころ正式に司令官・山下奉文(ともゆき)中将(1885~1946)に降伏した。パーシヴァルには非戦闘員の安全のための休戦に持ち込めればという思いがあったようだが、山下がパーシヴァルに「イエスかノーか」と降伏の意思の有無を確認した。これは当時立ち会った軍人たちの一致する証言であるが、恫喝の類ではなく、台湾人通訳の不明確な訳出ぶりに、明快な答えを求めたためであるとされる。
アーサー・パーシヴァル中将(1887~1966)
パーシヴァルはこのあと台湾と満州で捕虜生活を送り、満州で終戦を迎えた。1945年9月2日に、東京湾上の戦艦ミズーリで行われた降伏調印式には連合軍最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964)が差し向けた特別機で飛来し、元帥は、降伏文書に署名した5本のペンの1本を贈呈した。
戦後、マニラでのBS級戦犯裁判の結果、山下は終戦の翌年、1946年2月23日(皇太子明仁親王電化の誕生日)に合わせて絞首刑に処せられる、その際、軍服の着用を拒否され囚人服のままであった。米軍はパーシヴァルをマニラに送り、その死刑執行に立ち合わせた。