ルワンダ共和国

ルワンダ共和国の国旗
首都キガリ
言語ルワンダ語、フランス語、英語
人口9,998,000人(2008)
面積26,338km²

解説

1994年ルワンダで多数派のフツ族と少数派のツチ族との地で血を洗う虐殺が開始され、国際社会の注目を浴びた。

同じ部族でも穏健派と過激派でさらに対立するという複雑な構造となり、果てしない内乱と恐れられた。

2004年に製作されたテリー・ジョージ監督・脚本の映画「ホテルルワンダ」の恐ろしい場面が忘れられない。

ルワンダは第一次世界大戦終結まではドイツ領東アフリカの一部だった。

その後、ブルンジとともにベルギーの委任統治領となった。

ベルギーは少数派のツチ族を軍事、教育、人事などで引き立ててフツ族を間接的に支配させる社会構造で、40年余りこの地域を支配した。

しかし、1959年、ムタラ3世の死を契機に独立運動と王政廃止を求める輿論が盛り上がり、61年に行われた王政存続の是非を問う国民投票により、共和制による建国を進めることになった。

62年にキゲリ5世を廃し共和制による独立果たした。

しかし、依然、主要なポストを占めるツチ族とフツ族との対立が続いた。

その後、フツ族のジュベナール・ハビャリマナが大統領に就任すると土は部族対立が激しくなり、ツチ族は近隣諸国に逃れ出た。

しかし、1987年、ウガンダに逃れていたツチ族難民が主体となりルワンダ愛国戦線 (RPF) を結成し、90年代になって、祖国帰還を目指すRPFとフツ族主体の政権の間で内戦状態になった。

93年、両者間で一時、和平協定が結ばれ、国連平和維持部隊が展開したが、フツ族過激派の伸張で状況は安定化せず、94年4月のハビャリマナ大統領の暗殺を機に、制御できない虐殺が始まった。

このため、わずか3か月余りで、総人口約730万人(当時)中、80万人から100万人が死亡したとされる。

この戦闘でツチ族主体のRPF側がルワンダ全土を制覇し、フツ族穏健派のパストゥール・ビジムングを大統領、RPFの実力者ポール・カガメ(2000年に大統領となり現在に至る)とする新政権が樹立された。

このとき200万人を超えるとも言われるフツ族主体の国民が難民がコンゴ民主共和国など隣接する国々に流出した。

日本からの自衛隊の部隊が国連のPKO活動に参画し、3ヵ月間ではあったが、コンゴ民主共和国のゴマを起点に任務を遂行した。

しかし、難民のルワンダへの帰還が容易に進まないばかりか、大勢の難民を受け入れたザイール(現コンゴ民主共和国)ではモブツ政権の崩壊の大きな原因となるなど、周辺諸国に大きな影響を及ぼした。

一方、ルワンダ国内はツチ族の帰還が進み、このあとフツ族穏健派とともに復興に努め、奇跡ともいわれる政治・経済の順調な発展が図られた。

特に、ここ数年間は7%前後という急速な経済成長を遂げている。

2010年頃からはIT立国を目指し、ITの普及・整備に力を注ぎ、注目されている。

1994年、国連安保理は、ツチ族主体のルワンダ新政府の要請を受けて、ルワンダ国際戦犯法廷を設置、ルワンダ国内や隣接諸国でのジェノサイドや非人道行為に関わった者への審理が続いている。

大統領に就任したカガメは就任早々の2001年10月25日、工芸家アルフォンセ・キリモベネキョのデザインによる、流血をイメージさせる赤を意識的に避けた新しいデザインの国旗に全面的に変更し、ルワンダのイメ-ジを一新した。

黄色の太陽は、人々を団結へと導く希望の光を、また、24本の光芒は無知との戦いと啓蒙を象徴している。

青は、空と国民の幸福と平和を、黄色は経済の発展・繁栄を、緑は平和と資源の豊かさを表している。

ルワンダの国旗は、1962年の独立以来の約40年間、赤黄緑の縦三色旗の中央に黒で大きくRと書いたものだった。

Rは「ルワンダ」が「革命」によって生まれ、「国民投票」で承認されたた「共和国」であるという、フランス語4つの単語の頭文字であると説明されていた。

アフリカで最も人口密度の高い国であり、国民の教育レベル低くはない。

新しい国旗の清新なイメージ通りの平和で安定した発展を続ける国づくりに期待したい。