ハンガリー動乱とメルボルンオリンピック③

ナジ・イムレを指導者とする、自由を求めるハンガリーの人たちは命がけの反攻を試みたが、ソ連軍を中心とする進駐部隊の前に屈した。


首都ブダペストの中心街にたなびく、ソ連色の国章を切りぬいたハンガリー国旗。
ウィキペディアより。

世界的名選手とされたプシュカシュらは、自分たちには帰国の意志がないことを明らかにした。しかし、FIFAはプスカシュらに2年間、世界のどのクラブでもプレイできなくした(後に15ヵ月に短縮)。

1958年7月の出場停止期間終了が近づいたところで、レアル・マドリード(RM)のベルナベウ会長が、闘牛に招待して誘った。

プスカシュは、6週間で18キロの減量に成功、31歳でRMに加入した。1959年1月のラス・パルマス戦ではアルフレッド・ディ・ステファノと揃ってハットトリックを達成、10:1で圧勝した。加入2年目にブスカシュは24試合に出場して試合数を上回る26ゴールを挙げ、スペインでは初めての得点王に輝いた。ハムデン・パークで行われた同年のチャンピオンズ杯決勝アイントラハト・フランクフルト戦では、左足で2点、PKで1点、ヘディングで1点、計4ゴールを挙げた。これは歴代最多得点記録。1967年6月でブスカシュは引退した。


サッカーボールにサインするプシュカシュ(1965)

RMでは528試合に出場して512ゴールを挙げ4度リーグ得点王に輝いた。1981年、洪代表の黄金時代終焉から四半世紀を記念した祝典に招かれ、ブスカシュは25年ぶりにハンガリーへの帰国を果たし、大歓迎された。その後は折りにつけ帰国し、1992年にブダペストへの定住を決意した。ブダペストで開かれたブスカシュの70歳を祝う誕生祭には、サマランチIOC会長や当時のUEFA(欧州サッカー連盟)会長も出席した。

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