波爾多黎各 – 何だ、こりゃ?!


キューバの国旗

「波爾多黎各」がどこの地名かお判りなら、あなたは相当、感のいい人か、中国語通か、地理検定の最上級クラスの合格者ではないでしょうか。

では、ホセ・フェリシアーノ、リッキー・マーティン、ダディー・ヤンキーの3人の歌手の出身国、大リーグならともに野球殿堂入りしたロベルト・クレメンテとロベルト・アロマーの出身国、この5人を全部知っていたら、カリブ海域については、もう「通」以上と言っていいと思います。

9,900平方キロの面積に375万人という太平洋に浮かぶ島…そう、「波爾多黎各」はプエルトリコ Puerto Ricoです。スペイン語で「豊かな港(または美しい島)」、古くから交易で栄えた歴史を持っています。もっとも、正確には「豊かさを求め続けてきた島」であり、島は昔から貧しく、アメリカンドリームを抱いて、多くがアメリカ「本土」や同じスペイン語の通じる中南米諸国に渡りました。


プエルトリコ

そのプエルトリコが久々に報道されたのは、11月の米大統領選をめぐる共和党の候補者選びについて。3月18日、予備選があり、ロムニー前マサチューセッツ州知事が圧勝したのです。プエルトリコでは州昇格の是非が予備選の最大の焦点となりました。

州昇格を後押しすると約束したロムニー氏に対し、サントラム元上院議員は、州昇格はいいが、但し、英語を島の公用語にすることが条件と言及し、米国の領土でありながらスペイン語を母語とする多数派住民が反発したのです。

この機会に、少しプエルトリコの歴史を振り返ってみましょう。

この島の呼び名は、1493年11月9日、コロンブス(クリストバル・コロン)が、島の中心的な町であるサン・フアン(スペイン語では「聖ヨハネ」の意)の港に初めて入った時、¡Qué Puerto Rico!(なんていい港なんだ! スペイン語の感嘆文は最初に感嘆符の逆さまのものが付く)と叫んだことに由来するという説が有力です。それ以来、スペイン領だったのですが、1868年、日本で言うと明治維新の年、同じくスペイン領だったキューバと連動した独立運動が起こりました。

今日でも、キューバの国旗とプエルトリコの旗は色違いの同じデザイン、その親近感が抜きんでたものであることはこの一事でも解ります。

19世紀の後半は、本国スペインが弱っていた時期でもあり、スペインはもはやプエルトリコ人の独立への動きを抑止することは出来ませんでした。逆に、残虐な武力鎮圧が米紙に報道され、米国輿論をあおったのです。

しかし、そこに起こったのが、同年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine, ACR-1)の爆沈事故。これにより8名の日本人(コックとボーイ)を含む266名の乗員が亡くなりました。Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ! くたばれスペイン!)」という見出しが躍り、戦争へと駆り立てました。

「メイン号」爆発の原因は最終的には立証されていませんが、燃料の石炭が偶然、爆発したためというのが定説です。

この事件がきっかけで米西戦争が始まったのです。戦闘は、キューバ、フィリピン、グアムなどに及びました。この戦争を観戦した一人に、秋山真之がいます。5月19日、キューバの大西洋側のサンティアゴ湾にスペイン大西洋艦隊が入港しました。これに対し、米大西洋艦隊は同湾を封鎖し、陸・海軍共同でスペイン艦隊を攻撃したのです。秋山は連合艦隊参謀として、このサンチャゴ閉塞作戦を6年後の日露戦争における旅順港閉塞作戦の参考にしたそうです。

米西戦争は、キューバ、プエルトリコ、フィリピン、そしてプエルトリコをアメリカに割譲する形で決着しました。1885年にスペインが取得したばかりのパラオでは天然痘の発生で人口の9割もが亡くなるという悲劇がありましたが、99年、財政逼迫のスペインが、米国領となったグアムを除く自国領ミクロネシアを450万ドルで帝政ドイツに売却したのでした。パリ条約によって米国の領土となったプエルトリコでは民政府が成立し、キューバは1901年に米国のきわめて強い影響力を保持したまま形だけの独立国となりました。このあと今日までプエルトリコでは①完全独立派、②米国の州となることを目指す州昇格派、③形は現状のままでの自治権拡大派という3つの潮流が100年以上、続いています。

1917年、島民は米国民としての市民権を得ましたが、米国大統領選挙への選挙権は与えられません。また、所得税は免除されていますが、徴兵の義務は生じ、第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵されました。

第2次大戦後の48年、初の知事選挙が行われ、人民民主党のムニョス知事が誕生しました。

その後プエルトリコでは独立派が力を付け、島内各地で蜂起や反乱事件が続き、米軍により鎮圧されるということもありましたし、ワシントンDCの下院を襲撃して独立を訴えるということもありました。

こうしたことから米連邦政府は52年には米国のコモンウェルス(米国自治連邦区)として大きな自治権を付与し、他方、ムニョス知事は米国資本の誘致を図りましたが、満足な雇用が確保できなかったため、農村人口が急速に米本土に流出したのでした。

67年、今度は州昇格派が力を増し、プエルトリコでは自治拡大派の人民民主党との二大政党制が誕生しました。

98年、米国の51番目の州昇格の可否を問う住民投票が実施されたが、否決されました。

2004年に行われた知事選挙では、人民民主党のアニーバル・アセベド・ビラが知事に就任しましたが、財政は極めて厳しく独立派その面でも難しそうです。

しかし、いくつかある米国の海外領土の中では、このプエルトリコが51番目の州に昇格する可能性が一番強いというのもまた事実です。今年、2012年12月の投票結果に注目しましょう。それによっては米国の「星条旗」が51星になることもあり、なのですから。

もちろん未だ登場していない「51星の星条旗」については、稿をあらためてご紹介します。

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