南京城内に掲げられていた中華民国の「青天白日満地紅旗」。
パラマウント映画のアーサー・メンケンが撮影した日本軍の南京入場直後の様子。
「南京事件」に触れた前回の記事で、中国の最近の専門家の意見を簡単に紹介したところ、もっと詳しく書いてほしいというコメントを頂戴しましたので、私のブログ「新徒然草」(2007年12月12日)を転載し、多少、言葉を補って、ご紹介します。
☆★∴∵★☆∵∴☆★∴∵★☆
明日は南京事件から70周年目の日。あらためてあの戦争で亡くなられたすべての方々の霊に合掌する。
最初にお断りしたいのであるが、私は「非戦闘員を一人でも殺してはいけない」という立場である。「戦闘員が戦闘員を殺害したら英雄、戦闘員が非戦闘員を殺したら殺人犯」なのである。しかし、南京での攻防戦で、千人以上の非戦闘員が砲撃や空爆ではなく戦禍で亡くなったとしたらこれは大問題であり、詫びるほかない。
同様に、米軍の空爆で東京、広島、長崎、その他多くの市街地で数十万人もの民間人が殺害されたなら、これは明らかに戦争犯罪であると、確信する。
ところで、今朝の朝日新聞に拠れば、かねて大規模な拡張工事を進めてきた南京の「大虐殺記念館」の朱成山館長が記者会見し、「約12倍の展示面積となって再開することになった」と述べたそうだ。
虐殺を受けた数としての「30万人」については、「当時の軍事法廷などで実証済み」であり、引き続きそのように掲示するとのこと。
報道は、「一方、日本に関するコーナーを設け、中国に対する日本政府の途上国援助(ODA)などについても説明する」と結ばれている。
私は昨年2月、上海と南京を訪れた。上海では上海社会科学院程兆奇研究員(50歳)と面談し、南京では南京師範大学張連紅教授(侵華日軍南京大屠殺研究中心主任)(40歳)と長時間お会いした。
お二人とも、現代史研究の大家であり、責任ある地位を持っている人たちだ。
程研究員とは、南京の同科学院の書庫と思われる一室でお目にかかった。旧知中国共産党職員が同席した。その人は「ここは程研究員の自宅だ」といったが、日本語、中国語のものを中心に、学術書から総合雑誌、週刊誌に至るまでがそろっており、生活臭はまったくなかっただけに、自宅とは思えない。
この職員は、かつて私が研究推進担当常務理事をしていた東京財団に研究員として滞在し、私が他の研究員たちの前での研究報告を要請したところ、次の休日に私物を持ち去り、何も告げずに帰国した。必要経費その他を請求したところ、たちどころに邦貨約150万円を送金してきた経緯がある。
程研究員は、「日本人の手になる南京事件に関する既存の文献はほぼすべて目を通した。中国側資料としては、『南京大屠殺資料集』(張憲文編集、鳳凰出版社・江蘇人民出版社全28巻がある。南京事件など歴史問題を理解するには、資料に基いた議論が重要だ。中国では民族的感情に基いた議論をする研究者が多いが、自分はあくまでも右でも左でもなく、中立の立場で学術的見地から議論する。最近若者の間に反日感情が高まる傾向があるが、彼らに最も重要な点は歴史問題をよく勉強することだ。まず結論ありきの研究ではなく、資料の検証から結論に達するのでなければならない)と述べ、さらに、「政治的観点ではなく学術的観点に立つことが重要と思う。南京事件で何人の中国人が殺されたか、それが合法的であったか非合法的であったかというような議論では、侵略した者の立場と侵略された者の立場の違いがあるので、判断が難しい」としつつも、「研究者としては<何人殺されたか>ではなく、<史料から確認できる限り何人か>という議論しかできない。資料から見る限り、30万人は多すぎる」と述べた。
一方、張連紅教授には当時、国際安全区(難民地区)が設けられた金陵大学(現・南京師範大学)の一室でお目にかかった。
「日本軍による虐殺が行われた現場の一つで、ここで17名の学生が殺されたとの話だ。侵華日軍南京大屠殺研究中心では学術的な研究を行っており、政治性はない。歴史問題、中でも南京問題が日中関係をぎくしゃくしたものにしている元凶であるとの認識から、1998年にこの研究を始めた。この問題で日中双方が理解し合えれば、日中間に深刻な障害はなくなる」と述べ、「一つの問題にこれほどの異見が存在するのはなぜか? 南京問題については、事件発生から半世紀近く経った1980年代になってから、日中とも本格的な研究を開始した。日中双方が、自国の資料に基いて研究している。しかし、この点では最近資料の共有が行われ見解の相違が埋まりつつある。被害者、加害者の立場の違いがそれぞれ感情的に影響する。民族感情や政治問題が、研究にも影響を与える」とし、「これらの問題を克服するには、日中双方の研究者が公開、非公開を問わず、顔を合わせて議論し、資料を共有しながら研究することが重要だ。私は30万人という数字は政治的な数字であり、私たち日中双方の研究者は学問的数字を究めて行く必要がある」と話してくれた。
これはきわめて重要な情報であり、私は早速、永田町、霞ヶ関の関係筋に報告した。
そして、秋、朱成山館長ともどもこのお二人を招聘したが、朱館長は「体調を壊した」とのことで来日がかなわなかった。それ以上のことはわからないので、今は、きっとお元気になられたのであろうと思う。
来日したお二人には、日本の専門家たちに次々とお会いいただいたし、公開の場でも前述の発言のような内容で講演していただいた。
こうした機会を重ね、日中両国の専門家が、忌憚なく、この問題について話し合い、真実を極めてもらいたいものだ。興奮は禁物である。
再度、合掌して、本稿を閉じたい。