水野染工場のHPより
平安末期からその後の武家社会で実際に掲げられた旗は今の国旗のような横長のものではなく、丈が長く幅の狭い布による幟ないし幟旗と言われるものでした。軍容を誇示したり、自軍と敵軍との識別をおこなうために用いたのです。最初は上端に横木などを入れてL字型にした竿から吊るす「流れ旗」式でしたが、後村上天皇の1350年頃、「乳付幟」が用いられるように変りました。すなわち、幟の横に、多くは布による乳をつけ、竿に通し、立てて用いる幟形式のものです。
しかし、室町時代も後半になると武家の同族による争いが増え、旗印や同じ家紋では敵味方の区別が混乱してくるようになり、2つを1つにしたり小型のものを背中に立てたりして、識別を容易にし、これが日本中の武家に広まっていったのでした。
「幟」という字の「巾」の部分は「細く長い布」、つくりは知識、識別の「識」と同じで「見分ける」の意。やがて、江戸時代にはこの幟が大流行し、染色技法や製布技術の発達とあいまって、実に広報に役立ち、しかもすぐれた、芸術性の高い幟が作られるようになりました。その伝統は今でも5月の節句の美しい幟に活かされています。
さらに、歌舞伎や大相撲の役者や力士を応援する幟として今日にその伝統が伝わり、さらには、自動車の宣伝、大売り出しなどで、PCを活用したインクジェット方式の宣伝幟として、街中に溢れています。