AK47、モザンビーク、そして松本馨先生①


AK47 Ⅱ型銃

5年ほど前のことです。AK47と言うと、「アコー47士? それって赤穂の敵討ちの話でしょ?」という、信じられないような私の友人がいました(年齢、性別はマル秘)。でも、これはほんとにあった話。このごろはAKB48やサンフランシスコの49ersは有名ですが、ここでの話はあくまでもAK47、発明者の名をとってカラシニコフと呼ばれている、世界で最も幅を利かせている歩兵銃のことです。

ところで、これが堂々と国旗に出てくる、この国旗はどこの国の国旗でしょう?

ポルトガルからの独立戦争を戦った兵士たちとその伝統を継ぐ軍人をAK47で表し、農民をクワ(鍬)で、知識人を書物で表しているのです。この国が独立したのは1975年。しかし、独立後も1977年から92年までは内戦が続きました。

私が三宅和助外務省中近東アフリカ局長(当時)に勧め、二人で安倍晋太郎外相(現首相の父)に「日本の外相が多国間の国際会議に参加したことを除けば初めてになる外相のサビサハラ公式訪問をしてほしい」と折から「アフリカの飢餓」が叫ばれていた1984年に迫ったとき、「キミも付いてくるか」ということで、随員としてごいっしょさせていただいた1つがモザンビークでした。

避難民でごった返すキャンプでは微かに生命の炎を続ける赤子を目前にしたり、木の下で熱心に教え学ぶ学校を見たり、大統領専用機で地方を視察したりしました。その4週間後、その飛行機が撃墜され、大統領が亡くなりました。終始、前後にAK47を構える兵士や機関銃を積んだ車両が警備にあたっていました。

これに先立ち、ザンビアにもごいっしょし、首都ルサカのインターコンチネンタルホテルの仮設大臣室で、なんと4時間半もほとんど二人でお話しました。大使が陪席しておられましたが、二人に焼酎のお湯割を作ってくれていました。安倍晋太郎外相はほろ酔い加減で「外務大臣になっていろいろなことがあったが、最大の失敗は」とこんな話をしてくれました。もう時効でしょうから、そのときの内緒の話を1つしましょうね。

「昭和天皇の前でなんだよ。ある大使の認証式のときだが、『ところで、カヤくんはいまどうしているかね』とご下問があったんだ。上がっていたんだろうね、とっさに茅 誠司前東大学長だと思い、『はい、ただいま、小さな親切運動の会長をなさっておられます』と申し上げたところ、とても怪訝な顔をされておられましたが、私は早々に引き下がったんだよ。本省に戻ってしばらくして、自立していたが官房の職員から、『今思い出したんですが、あれは賀屋大使(1926~2011)のことではなかったでしょうか』。参ったね」。

賀屋大使とは治憲王(元宮様)でイスラエル、デンマーク、ブラジルなどの大使をした方。

AK47を描いたモザンビークの国旗から、大きく脱線してしまいました。

でも、4時間半の「お相手」の後半、「明日はカウンダ大統領と会うんだが、さっぱり話題がない。何かないかね」と大臣がおっしゃるので、「実は、難民を助ける会の活動実施のためのザンビア内務省との契約書にいっこうに内相サインをいただけない」と申し上げました。すると「それは具体的でいい。必ず言うよ」。契約書は4,5ヶ月もさらしものになっていたのですが、2日後、あっさり締結。以後、今日まで29年間、難民を助ける会はザンビアでの活動を継続しています。

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