孫 文圭朝鮮大学校教授の講演録を続ける。
慶祝代表団の派遣
次に、こうした慶祝運動のなかでもう1つ大きな特徴が、共和国創建慶祝代表団をピョンヤンへ送る運動も盛り上がっていきました。これは136回中央常任委員会の「慶祝代表団を祖国に派遣する」決定に基づいたものですけれど、在日同胞には、ぜひとも自分たちの代表を派遣したいという願いがあったのです。自分たちは共和国を絶対に支持しているのだと、そして自分たちの運動を訴えて、共和国との連携を持ちたい、という目標をたてて代表団を送る運動が広がっていきました。この運動は、朝連の決定以前に、同胞たちのなかから沸き上がった要請が朝連中央にたくさん寄せられたのです。そういう要請を汲み取って運動が開始されたのです。
例えば山口県では、『解放新聞』に出ていますが、慶祝代表を送るのに5000人に1人の割合で代表を送りたいということで、山口県の朝連では代表を選ぶのに直接選挙まで行なっています。他の県では、朝連の第5回全国大会を迎える県単位の定期大会で代表を選出する、という方法で決定されました。(なお、第5回全国大会は1948年10月14~16日に開催されました。)
そのなかで朝連中央の慶祝大会が1948年10月17日に開かれたのですが、その直前の10月9日の朝9時半に共和国の金日成首相から朝連中央総本部宛に招待電報が来ています。これがこの運動をいっそう盛り上げる契機になったと思います。10月8日午後3時にピョンヤン放送で金日成首相が朝連の代表団をピョンヤンに招待する旨の電報を打ったという報道が入って、9日の朝9時半にその招待電報が朝連の中央会館に到着したわけです。
ここで興味を引くのは、金日成首相の招待電報の内容が『解放新聞』に公表されますが、GHQは同電報がとどいたことを知らなかったということです。電報は必ず中央電報局を通して、CIS(民間諜報局)が事前に監視・検閲できるシステムになっていたはずですけれど、実際はチェックができませんでした。その件でCISと3謀第2部(GⅡ)の幹部たちが激怒して、すぐにこの電報がどういう経路で入ってきたのか、また、朝連中央が感謝の電報をピョンヤンに送っているのですけれども、それは誰がいつ送ったのかなどの調査を指令しています。これはGHQが朝連と共和国との結びつきを非常に警戒し、それをできるだけ妨害しようとしていたことが分かります。
10月17日の中央慶祝大会で正式に代表団の結成が決まって、10月25日には具体的な活動にふみきる、慶祝派遣団出発準備委員会が作られています。準備委員会は、旅券の獲得、在日朝鮮人運動の実態報告の作成、祖国に贈る記念品の用意、財政などを分担して活動しています。そして10月27日にGHQの民政局(GS)と外交局(DS)に訪ねて、旅券の交付を求めます。GHQは当初、旅券の交付に好意的な回答を出しますが、その次には、代表団の個別的な名簿を提供してほしいと言い出します。そこで尹槿の名前で一括して旅券の申請、具体的な飛行機の利用、パスポート、滞在の許可などの申請書を出しますが、GHQは、最終的にはGⅡの指示ですが、朝連は共産主義組織なので、北朝鮮に送ることは治安上、危険だから許可を出さないという結論になります。これは10月17日のGHQの法務局(LS)の文書から明らかになっています。
朝連としては、GHQは一応許可してくれるということで交渉を進めていきましたが、許可がなかなか出ないので不満が高まります。これに関する日本側の資料もあります。京都米軍政部宛に京都市の警察当局が報告を出しています。これは「朝鮮人連盟の北朝鮮政府樹立祝賀代表団の派遣の件」というもので、次の点を取り上げています。北朝鮮人民共和国の金首相からの招待状に答えて、在日朝鮮人連盟では祝賀団を派遣するために5000人に1人の比率で各支部ごとに代表を選出していること。京都では朝連京都府本部の林委員長が代表に決定されていること。代表団は飛行機の便で朝鮮に行けるよう対日理事会に対して工作していること。万一、許可が下りない場合は密航の方法を使っても朝鮮への渡航を強行するおそれがあることなどをGHQに報告しています。これは京都終戦連絡地方事務局から出された『執務半月報』の第17号に載っています。
GHQは許可を出すと言いながら、結局出さなかったわけです。とはいえ、どのように北朝鮮に渡ったのかについては資料がないので不明ですが、1948年12月23日に金日成首相と在日祝賀団が会ったことは確かです。例えば、共和国で出版された『解放10年史』(1955年)には、(これは『朝鮮中央通信』の報道記事を集めたものですが)「1948年12月10日に朝鮮民主主義人民共和国設立を慶祝する在日朝鮮人代表一行、来朝。翌49年1月10日、内閣首相金日成将軍、来朝中の一行を接見」、という記載があります。その他にもこの祝賀団にふれている資料があります。1948年12月23日に金日成首相の在日朝鮮人運動に関する重要な談話が発表されていますが、私が共和国へ行ったときに学者たちにたずねたところ、具体的な経緯までは明らかにしてもらえませんでしたが、代表団の訪問は事実だということを確認できました。これは、当時共和国政府も在日朝鮮人運動に強い関心をもっていたことを物語っています。
10月7日にアメリカ極東軍3謀本部長宛に出された「左翼の朝鮮人集会とデモ」という秘密文書がありますが、これは、GⅡによって作成されたものです。その内容を要約すると、第1に、朝連による全国的集会とデモが行なわれる情報を入手していること。東京での集会の詳細は分からないが、10月9日に日比谷公会堂で開かれる予定で、集会は朝連の第5回全国大会の序幕となるだろうと。また、その動向は、李承晩大統領の就任式で獲得した南朝鮮政府の権威を落とす目的をもっていること。第2に、10月9日の集会で朝連の新しい規約の予備討論が行なわれること。朝連は強力な中央的統制を受けた組織として、日本共産党と緊密な関係をもつことになると。第3に、10月の左翼大会で共和国の国旗掲揚がはかられて、これは反占領軍的な性格を持つこと。
GⅡ文書によれば、国旗掲揚の動機は、万一、北朝鮮国旗の掲揚に対して占領軍が反対した場合は、朝連が「掲揚という行為には反対しているが、共和国の存在そのものは認めている」という主張をして口実をつくろうとしているのではないかとあります。仮に国旗掲揚の禁止がなかった場合、それはGHQが共和国の存在を承認したという宣伝を許すことになります。GⅡはなによりそれを恐れていたようです。最後に、民団の妨害によって、暴力事件が起こりうることも指摘されています。
GⅡは、共和国の国旗掲揚は占領目的に反するものだと強調しています。これが国旗掲揚を禁止するGⅡの、占領軍の1つの見解になったのではないでしょうか。その結果、国旗掲揚禁止命令が出されていくわけです。
口頭命令
こうして作られる国旗掲揚禁止命令がどのような形で強要されていったのでしょうか。国旗掲揚禁止命令が10月8日午前8時に横浜の第8軍軍政本部副司令官から出されるわけですが、この副司令官は実は第8軍GⅡの部長を兼任した人物です。この彼が、口頭禁止命令という形で、無線指令「GX73532E0」をアメリカ極東軍司令部、第9と第1地方軍団司令部(仙台、京都)に送っています。その内容は、10月9日に計画されている朝鮮人のデモ行進を参考にして、北朝鮮の国旗掲揚と同国旗を描いたポスターの掲示を、日本国内においては一切禁止するという連合国最高司令官の決定を日本当局に通達せよということです。その無線指令には旗の真ん中が赤い云々と、国旗の内容が説明されています。そのなかで禁止命令が連合国最高司令官マッカーサー元帥の決定という表現になっています。この「決定」は、後でその法的根拠との関連で問題になりますが、当時、日本のマスコミでは、これは連合国最高司令官・総司令部(GHQ/SCAP)の指令と報道されています。しかしこれは連合国軍の指令ではなくて、アメリカ極東軍へのマッカーサーの個別命令にすぎません[2]。
同命令の法的性格は非常にあいまいなものになっています。この点について、GHQの外交局(DS)局長W・J・シーボルトもアメリカ国務相に同様の指摘をしています。なお、禁止命令は「朝鮮民主主義人民共和国」という正式な名称を使っておらず、「北朝鮮」国旗とかしか書いていません。これは後で軍事裁判で問題になってきます。後ほど布施辰治弁護士は「北朝鮮国旗というものは世界に存在しない。実際にあるのは朝鮮民主主義人民共和国の国旗だけだ」から、共和国の国旗を掲揚した人びとを処罰する法的根拠はない、と主張するわけです。同命令の適用もあいまいで「いつ、どういう行為がだめなのか」がはっきりしません。日本国内では24時間禁止と言うのですが、どういう形の掲揚がいけないのかはよく分かりません。それは基本的人権である表現の自由などの関係で問題提起されていきます。それでも占領軍当局はこのようなきわめて漠然とした命令を発して強要していくわけです。
そのために、マッカーサーの決定が出された後に、それを執行していく過程でいろいろな問題が出てきたのです。神奈川県軍政チームでは朝連の神奈川県慶祝大会が開かれた10月9日に実際に禁止命令が発せられたのですけれども、このときバッジの場合はいいのか、旗とポスターは公的な場所でなければ禁止の対象にならないのか、2度違反したら逮捕するのかなどなど、さまざまな問題が出てきて、占領軍当局と日本警察の間で討議されました。そういった事からも、マッカーサーの命令は非常にあやふやなもので、後々に問題を引き起こし続けていきます。
法的に不備な内容にもかかわらず、アメリカ軍側は朝連対策として禁止命令を重視していました。朝連の運動を治安問題として監視・管理しながら、占領軍は禁止命令を的確に適用できるか、実効性をもてるか、神経を尖らせたわけです。そこで同命令を浸透させるために軍事的な手段を使っていきました。1948年4月の山口・阪神朝鮮人学校弾圧事件のとき在日同胞が強力な反対運動を展開して、朝鮮人学校閉鎖命令をうやむやにしてしまった経過を踏まえて、GHQは軍事力で禁止命令を徹底的に実行させようとしました。普通の手段では明日行なわれる大会を禁止することは無理ではないかという、非常な危機感を持ちながら、軍事的に同命令を強行したということが、資料から確認できます。
特に、GHQは第8軍を通して、10月8日午後、朝連の県幹部たちを呼んで「国旗を掲揚してはだめだ」と禁止命令を浸透させていきます。禁止命令は、迅速に当日の午後に朝連側に伝わっていくわけですが、遅いところは次の日になります。と同時にGHQはもうひとつの指令を出します。8日の午後に民間諜報局(CIS)のR・S・ブラトン(公安課長)が国家地方警察(国警)本部を訪ねて刑事局長と会い、警察側からも禁止命令を文書で発するよう指示します。その結果、日本国警長官から無線通牒が、同日午後、全国の国警県本部長などに出されています。
国警長官名による国旗禁止命令が、なにかGHQの口頭命令に法的拘束力を持つものだと思わせたひとつの原因のようですが、これは単に占領軍の指示を伝えただけのものです。こうして日本警察を通して、同命令が山口県ではその日の午後6時にはすでに入っています。その時点では、山口県国警本部長は地方軍政部からの連絡がないので「大丈夫なのか」と県の米軍政チームに問い合わせをしています。山口県軍政チームの担当者がその連絡を受けて「まだ聞いていないが、そちらで適当に対応しなさい」と答えました。が、次の日には軍政チームの通訳から「こちらにも通達が来たので、徹底的に実行しろ」という展開がありました。山口県の場合は、国警の県本部が10月9日に朝連の県委員長を下関警察署に呼び出して、「10月10日の大会で、国旗を絶対に掲揚してはならない」と指示した記録が残っています。
共和国国旗の掲揚禁止命令は、アメリカ軍を通した指令と、日本警察を通したものの両方からやってきます。そういう意味で禁止命令の浸透は非常に早く、徹底していたわけです。それほど占領軍当局は国旗掲揚に対して強い危機感をもっていたのです。