2012年初場所を初優勝で飾った
エストニア出身の大関・把瑠都.
まわしの色はエストニアの国旗の色。
初場所大相撲で大関・把瑠都が優勝しました。それも大関が13日目で優勝を決めるという、10年前の朝青龍以来のことであり、旧ソ連構成国出身の力士としては初という快挙です。
まずもって把瑠都関に祝意を申し述べます。
それにしても、この場所はどの取り組みも素晴らしかったですね。正直なところ、「今までの取り組みは全部八百長だったんではなかったか」と言いたいほどの真剣勝負の連続で、老生はおおいに興奮を感じさせていただいたのでした。
さあこれで、明日の千秋楽、結びの一番、横綱白鵬に挑む把瑠都、何があってもテレビ桟敷から離れられません。
秋田出身の美男横綱・照国に黄色い声を送っていたときから60年、一大相撲ファンとして、タディの頭は、明日の夕方まで、ああなるか、こうするかと頭の中が想像でいっぱいです。
エストニア人が優勝しても、国技は国技。この大相撲の復活ぶりに大きな拍手を送ろうではありませんか。
と、ここまでは2012年1月21日、大相撲で言うなら初場所14日目の取組前に書きました。
ところで、エストニアといえば、100年以上前から5年に一回催されてきた首都タリンでの合唱祭です。人口140万人にも満たない小国エストニアで1999年に催された合唱祭には、歌い手が2万人、聴きて手が10万人以上が参加しました。これを単純に人口比で日本の人口1億2千8百万に換算すると合唱団員は180万人、聴衆は約900万人ということにもなります。もちろん指揮者が一人では合唱団員から見えませんし、以前はもっと参加者が多かったと聞いていますので、総指揮者がいて、最後部に副指揮者がいて、中間に副々指揮者がいたというのですが、今ではおそらく大型テレビ画面かなんかで、指揮者はひとりなのではないでしょうか。
これがエストニアの伝統文化だとすると、最近ではKaZaAの共同開発者であるニコラス・センストロムとヤヌス・フリスがSkypeを開発した国として有名です。
Skypeの本社はルクセンブルクにありますが、開発拠点はエストニアの首都であるタリンです。Skypeは、マイクロソフト社が提供するP2P技術を利用した格安のインターネット電話サービスで、単身赴任者や留学生、最近では国際協力活動の駐在員に至るまで、本社や留守宅とこれで毎日のように、交信しています。
この合唱祭では2つの課題曲が事前に発表され、各地でその練習を重ねてゆきます。また第二の国歌とも言うべき『わが祖国 わが愛』が必ず唱和されます。エストニアは他のバルト諸国(ラトビア、リトアニア)とともに、第一次世界大戦後1919年に独立を果たしたのですが、第2時世界大戦中に強制的にソ連の勢力下におかれ、大勢の国民がシベリアなどに追放されました。そして戦後はソ連に併合されて、国が事実上、消滅してしまったのです。冷戦下にあってアメリカはこれを認めず、ワシントンにあったバルト3国の大使館はそのまま、それぞれの国の国旗を掲げ、そのトップは大使として処遇されていました。
この間、『わが祖国 わが愛』はソ連当局によって演奏禁止となり、作曲したGustav Ernesaksの音楽活動は大いに制約されました。
ところが、1960年の合唱祭で、その当局を驚天動地に陥れる「騒ぎ」が発生しました。5人を数える聴衆が、突然、独立回復への思いから自然にこの曲を歌いだしたのです。
この「事件」を機にこの曲の演奏は黙認されるようになりました。1977年にこの国を訪れた時、合唱祭に大きな関心を持ってしつこく聞くものですから、ついに、エストニア科学アカデミーの総裁以下幹部のみなさんが、根負けしたのでしょう、この曲を歌って聞かせてくれました。もう、モスクワべったり?の人も、自由を渇望している反体制的な発言をする人も分け隔てなく、歌ってくれました。
今になって思えば、長野県の人たちが『信濃の国』(浅井烈作詞、北村季晴作曲)を歌うときのようなものだったのかなと思います。廃藩置県当時、長野と松本の対立ないし対抗意識は激烈なものが「ありました」。あるいは、それ以来今でも「あります」というべきかもしれません。かつて私が教授として奉職したある大学では当時の学長と学科長がそれぞれ長野市と松本市の出身で、はっきりいうと「あまり芳しくない関係」でした。それが、ある日の「飲み会」でのことでした。ちょうど拙著『愛唱歌とっておきの話』(海竜社)でこの歌について書いたばかりでしたので、私が学科長にこのふるさと長野の県歌を所望すると、少々照れながらも立ち上がり、「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして…」と歌い出しました。すると、学長もすっくと立ち上がり、「聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや早し」と続け、日ごろのストレスはどこかへ、最後は固く肩を組み合って絶唱したのです。
エストニアに話を戻します。1985年、モスクワではゴルバチョフ政権がペレストロイカ(抜本的改革)、グラスノスチ(情報公開)を掲げ、「民主化」を始めると、エストニアは悲願の独立回復に向けて、蠢動をはじめ、その動きは急速に拡大しました。モスクワは機動部隊や戦車を展開しましたが、エストニアの人たちはこれに合唱で抵抗しました。
合唱への参加はエストニア人にとって、アイデンティティそのものなのです。
果たして、把瑠都(本名:Kaido Höövelson)がこの合唱祭に参加したことがあるのか、どなたかご存知でしたら教えてください。
最後になりましたが、エストニアの国旗です。中世にさかのぼる歴史を持つとされる古い旗をもとに、1881年、エストニアのタルトゥ大学の学生たちが選んだデザインです。青は古い紋章である3頭の青いライオンから採ったものですが、同時に空や海、湖を表します。黒は国の暗黒時代の悲しい歴史を忘れまいという気持ちと大地を、青はそれでも失われなかった希望、友情、団結を、白は雪を表わすと同時に明るい未来とその発展を図る真摯な取り組み態度を表わしています。
この旗は1940年の国の消滅とともに消え、80年代後半の独立回復運動で用いられました。91年の春先にわが師・末次一郎先生とモスクワを訪問した時、クレムリン前の広場に夥しい数の群衆による大きな集会が開かれ、私たちはその演壇のはるか上にあるガスニツァ(ホテル)モスクワのバルコニーからその光景を見下ろしました。その時、最初に「おおっ!」と驚きの声を挙げたのは、このエストニアの国旗が入ってきた時でした。当時、公式にはまだソ連構成国らしい旗でしたので、私はとても興奮もし、緊張もしました。しばらくして、ウクライナの青と黄の横2色旗、リトアニアの黄緑赤の横三色旗など、その後独立したうちの数カ国の国旗も入場し、国の大きな転換点を見る思いでした。
そして、モスクワでのクーデター未遂事件直後の同年8月、エストニアは率先して、国家再興を図り、この旗は再び国旗として翻り、9月にはバルト3国はいっしょに国連加盟国となり、3つの国旗はニューヨークの国連本部でも掲揚されたのでした。
エストニアは今や年率8%もの経済成長を遂げる国となり、国債の評価でも不動の高い評価を受けるまでになりました。
把瑠都の横綱昇進を期待するとともに、エストニアの人々が合唱の喜びに浸りつつ、国旗の白が示す、国家のさらなる発展が実現することを祈念します。