宇田川榕菴と箕作阮甫


宇田川榕菴

箕作阮甫

18世紀の終わりころ、すなわちフランス革命の頃から、日本は激しい外圧にさらされます。

教科書にも出てくる大きな出来事を列挙してみましょう。
1792年、ラクスマン(露)、根室へ
1804年、レザノフ(露)、長崎へ
1808年、フェートン号(英)事件
1811年、ゴロヴニン(露)捕縛、収監
1837年、モリソン号(米)事件でしょうか。

日本の周囲でこのような事件が続く中、幕府は1825年、異国船打払令を発し、音吉ら7人の漂流民を乗せた商船モリソン号に砲撃し、これを退去させました。

私が感心するのは、その間にあって、幕府は①国際情勢の研究、②外国語の専門家の養成に努め、加えて、③各国の国旗についてよく研究していたということです。

書物が残っているものをみながら、具体的にご紹介しましょう。

1821年、肥前の平戸藩弟大藩主・松浦静山(まつら・せいざん。1760~1841本名=清)がロシアとオランダの国旗について『魯西亜漂舶幟・和蘭軍船法大略』の著作を著しています。オランダ人が持ち来たったものを別として、これが日本人の手になるものとしては最も古いものです。

ついで、1840年、幕臣として小納戸・駿府町奉行であったの貴志孫太夫(きし・まごだゆう。1800~57)が『万国国旗図及檣号図』を、さらに、1845年、津山藩医の宇田川榕菴(うたがわ・ようあん。1798~1846)が『国章譜』(万国旗章譜)と『航海旗章譜又名百九十一番旗合』を書いています。

加えて、1846年には、著者不明の『万国旗印』と、同じく津山藩医の箕作阮甫(みつくり・げんぽ。1799~1863、本名=貞一、号=紫川)編になる『外蕃旗譜』、そして、水戸藩士の鱸 奉卿(すずき・ほうきょう。1815~56。本名=鈴木重時、号は金谷=きんこく)の『万国旗鑑』が刊行されています。鱸はさらに、1851年に『万国旗章図譜』を上梓しています。

周知の通り、ペリーが来航したのは1854年、その年には松居信(南岱。詳細不詳。お分かりの方はご教示ください)が『万国舶旗図譜』を刊行しています。

内憂外患、激動する内外情勢下にあって、幕府や各藩が真剣に国旗の研究をしていたと言うことは、同好の士たる私にとって、身が引き締まる思いです。

個人的には、1964年の東京オリンピックの2、3年前を思い出します。当時の日本にはどこに行っても国旗の資料等ほとんどなく、この、所詮は秋田の田舎から(ポッとか、ボーッとしてか知りませんが)出て来たばかりの一学生にすぎない私に、「しっかり頼む」と与謝野 秀(すぐる。馨衆院議員のご尊父=鉄幹・晶子の次男、元イタリア大使)事務総長が、組織委のあった今の迎賓館(旧赤坂離宮)で「国旗担当専門職員」の辞令を渡すほかなかったのです。

私としてはあの時の緊張と重圧は今でも忘れることが出来ません。ですから、幕末の宇田川榕菴や箕作阮甫のように幕府の下級官僚として外務事務に携わっていた人たちは、その何倍もの思いで、文字通り命がけで「Xディ」のための準備をしていたのでしょう。

しかも、さきほどは記しませんでしたが、この間、シーボルト事件(1828)や蛮社の獄(1839)などが続き、海外事情を調べようとする人たちにとっては苦難の日々が続いていたのです。

私が生まれる100年前のこうした先学のご尽力にあらためて敬意を表しつつ、「タディの国旗の世界」では、このあと幕末の国旗研究について少し詳しくご紹介してまいりたいと思います。

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