宇田川榕菴


宇田川榕菴

よく知られる「珈琲」をはじめ、コーヒーには数十もの当て字があるという。

2月5日付朝日新聞「天声人語」の冒頭です。

「天声人語」によると、

「可否」もわりと流布していて、獅子文六がかつて「可否道」という、コーヒー好きたちの小説を読売新聞に連載した▼作者は「可否」の当て字が好きだったらしく、登場人物に言わせている。「可否が、一番サッパリしているよ。それに、コーヒーなんてものは可否のどちらかだからな」。むろんこの可否は味の良し悪しで、国会審議を抜け出して飲むことの可否ではない。

ま、そんな具合に、防衛相として無能であるばかりか、予算委員会の審議を抜け出し、コーヒーを飲んでいたというオソマツぶりを連発している田中直紀大臣を痛烈に批判しているのがこの日の「天声人語」の趣旨ですが、なんの偶然か、私はその「珈琲」の当て字を考案した人のことについて調べるために、岡山県津山市の津山洋楽資料館に向かう新幹線の車中でこれを読みました。

閑話休題。この人・宇田川榕菴(1798~1846)は江戸時代後期の著名な蘭学者、「日本における近代科学の生みの親」といわれている人です。

大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ、1811年に津山藩医宇田川玄真の養子となった人です。1817年に津山藩医となり、26年にはその優れた語学力と学識を買われ、幕府の天文方蕃書和解御用(後の蛮書取調所)の翻訳員となり、ショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成にあたるため江戸に居を移しました。 養父・宇田川玄真、そのまた養父である宇田川玄随、宇田川榕菴はいずれも著名な蘭学者であり、榕菴の養子である宇田川興斎は明治以降も、洋学者として知られた人です。

今にして思えばわずか47歳で他界した学者ですが、その研究業績は枚挙にいとまがないほど多分野に及んでいます。養父との共著で1822年から1825年にかけて『遠西医方名物考』、28年から30年にかけて『新訂増補和蘭薬鏡』、34年ごろに『遠西医方名物考補遺』といった薬学書を出版しているほか、22年には『菩多尼訶経』(ぼたにかきょう)、35年には『理学入門 植学啓原』を上梓して、西洋の植物学を日本にはじめて紹介しました。菩多尼訶はラテン語 Botanica(植物学)に由来しています。

また、晩年の37年から死後の47年にかけて日本ではじめての化学を紹介する書となる『舎密開宗』を出した。舎密は今で言う化学、すなわちオランダ語 Chemie のこと。原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1799年に出版した Elements of Experimental Chemistry 。それをドイツ語に翻訳、増補し、さらにオランダ語に翻訳、増補したもの他の多くのオランダ語の化学書からの新しい知見を加えたり、榕菴自身が実験した結果からの考察などを付け加えての内容となっています。

榕菴はまた、それまでの日本語になかった学術用語を造語したことでも知られています。「酸素」「水素」「窒素」「炭素」「塩素」といった表現とその総称である「元素」、「酸化」「還元」「溶解」「分析」「白金」「亜硫酸」「塩酸」「温度」「還元」「気化」「凝固」「結晶」「試薬」「煮沸」「昇華」「蒸気」「青酸」「成分」「中和」「炭酸」「圧力」「金属」「装置」「物質」「沸騰」「法則」「飽和」「濾過」「坩堝」「細胞」「属」といった化学・物理・生物の用語を造語しました。とりわけ、「元素」は中国語では「元質」とか「原質」という言葉があったにもかかわらず、榕菴の造語である「元素(中国語の発音はユアヌスウ)」が用いられています。

そして「素」という言葉に「白い」「何者にも染まっていない」という意味以外の「源」といった意味を発生させたのが榕菴でした。ですから、現在でもデジタルカメラの「画素」という言葉はいわば榕菴が案出してくれてこその現代の造語なのです。

このあたりについてはさまざまな研究書などを参考にしましたが、高橋輝和著の『シーボルトと宇田川榕菴 江戸蘭学交遊記』(平凡社新書、2002年)が最も手ごろで参考になりますので、さらに知りたい方はこちらをごらんください。

さらに宇田川榕菴は『西洋度量考』『和蘭志略稿』『諸国温泉試説』などを著しました。

おそらく日常、コーヒーを嗜みつつ、その紹介書『哥非乙説』(こひいせつ)なども書いています。

そして、訳語「珈琲」を考案し、この言葉を蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。ですから、われら現代人は、昼には「珈琲」で、夜には「炭酸」の入ったビールで榕菴のお世話になっているのです。

>ほかにも榕菴は西洋音楽の楽譜を解し、絵が巧みで、今と全く同じカード(トランプ)の自作をもしています。


宇田川榕菴自筆により製作されたカード(複製)。
津山洋学資料館で購入したもの。

宇田川榕菴にいささか入れこんでしまったのか、前置きが大変長くなってしまいました。私がこの「好奇心旺盛でマルチな才能を備えた学者」をもっと知りたくて津山まで出かけたのは、最晩年の1845年に『國章譜』『航海旗章譜 又名百九十一番旗合』という世界の国旗についての翻訳・研究書を遺しているからです。これらのベースになったのは、「一八三六年、我 天保七年 アムステルダム刻ヤーコッブ・スワルトが譜なり」と榕菴自身が記しています。

墓所は近年、東京の多摩霊園から岡山県津山市の浄土真宗泰安寺に移され、養子4代が並んでいます。国旗研究の大先輩に神妙に合掌してまいりました。

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