前回は、ソ連とロシアの国歌の話に拘りすぎました。話題をソ連とその構成国だった国の国旗に戻します。
バルト3国、すなわち北からエストニア、ラトビア、リトアニアは第一次世界大戦直後に独立を達成した国々です。エストニアは2012年初場所で優勝した大関・把瑠都の出身国として日本でも多少、知られるようになりましたが、ラトビアは首都のリガと神戸とが姉妹都市であるほか、日本との関係はまだあまり進んでいません。
バルト3国の中で、ラトビアの特徴は、国内に住むロシア人の割合が4割を超え、特に首都ではラトビア人の数とほぼ拮抗しているという難しさです。ラトビア語が公用語ですが、特に都市部や中高年層ではロシア語を日常語としている国民の比率は高いです。国全体ではラトビア語を常用している人は6割弱、ロシア語は4割弱、その他若干となっています。「ラトビア人の71%がロシア語を話すことができ、ロシア人の52%がラトビア語を話すことができる」という統計もあります。 これは、ラトビアの国籍取得のためにはラトビア語の習得が義務付けられているため、ロシア系住民や他の少数民族の人たちの間にもラトビア語を話す人が増えたことによるものです。映画館やテレビ番組では2つの言語による字幕が示されています。
リトアニアは杉原千畝(1900~1986)の人道的な活動で、日本では一挙に知られるようになりました。杉原は、第二次世界大戦の初期、駐リトアニア日本領事代理時代に、ナチスドイツの迫害から逃れようとポーランドからに脱出してきたユダヤ人難民約6,000人に、東京の外務本省からの指示に反し、人道的立場に立って独断で日本通過のためのビザ(査証)を発給し続け、尊い命を救いました。これにより杉原は日本外交史の中で特別の輝きを持つ存在になりました。新聞や雑誌で紹介され、高校の英語の教科書にも掲載されるなどし、その名が知られ、高い評価を受けるようになりました。生誕の地・岐阜県八百津町には杉原の名を冠した記念館や記念基金ができ、「人道の丘公園」が建設されています。日本のみならず、リトアニアとイスラエルに顕彰碑が建てられ、リトアニアの首都カウナスには「スギハラ通り」ができました。
バルト3国はいずれも1940年にソ連に強制的に併合され、独立を失いました。アメリカはこれを認めず、ワシントンには引き続き、3国の外交使節の存在を認め、そこではソ連への併合以前の国旗が掲揚されていました。
1991年5月、3国はいち早くソ連からの離脱による独立を宣言しました。私はこの年、数回、モスクワを訪れましたが、6月に師匠である末次一郎先生に同行した時、ホテル・モスクワのバルコニーからマネージ広場に集まる数万人のデモを見ていました。
広場に繋がる道路からソ連に吸収される前の国旗を掲げ、各民族の人たちが次々と入り込んでくるのでした。ポポフ・モスクワ市長ら改革派のリーダーたちがこれを、バルコニーの下の演壇で向かえ、会場は身動きできないほどの人に埋まりました。
ソ連を解体するか、大幅な自治権を与えるかといった分岐点になった集会だったように思います。ソ連はその半年後に、あえなく崩壊してしまいました。
ソ連は民族も宗教も様々な2億9千万人もが暮らす15の共和国から成っていました。1991年12月15日、その構成国中、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン4構成国首脳が「連邦からの離脱」を決めて、15の国になったのです。最大のロシアでも人口はソ連の半分以下になってしまいました。
ソ連はアメリカを中心とする「西側」に対抗し、東西冷戦の「東」の超大国であり、その崩壊は20世紀最大ともいわれる歴史的事件でした。帝政ロシアを倒した「ロシア革命」から74年間の社会主義による壮大な社会実験が終わったともいう人もいます。
その間は共産党の一党支配でした。特に、グルジア出身の独裁者スターリンの時代には、第二次世界大戦において勝者とはなったものの、2000万人もの戦争犠牲者のほか、数知れない死者を出す国民への弾圧が行われました。そして、今も、社会主義を標榜し、共産党ないし労働党等名前は別でも実態の変わらない一党独裁を続け、人権と自由を抑圧している国々があります。中国をはじめとするいくつかの国のことです。
ソ連崩壊の理由はいくつかあるでしょう。国が管理する「計画経済」が官僚主義と非効率を招いて行きづまり、巨額の軍事費も負担となって米国と核軍縮の交渉を進めざるを得なくなったこと、軍事やイデオロギーに偏ったソ連外交の転換を図ったゴルバチョフ氏の「新思考」外交は89年の冷戦終結につながり、東欧で革命を促したこと、それがソ連の民族自立の動きに跳ね返ったこと、軍事優先で国民生活の向上を図れなかったこと、民主主義を掲げても実態が伴わない秘密警察国家になってしまったことなどが挙げられるでしょう。
ソ連の解体を進めたエリツィン氏(新生ロシアの初代大統領)らは、独立国家共同体(CIS)を設けて急ソ連構成諸国との絆を保とうとしました。実際、エネルギーについてはロシアやアゼルバイジャンは産油国ですが、他の多くは石油も天然ガスも輸入せざるを得ません。綿花を栽培する国、紡績をする国、布地にする国は互いの連携がなくては成り立ちにくい経済構造になっています。他国に移住した人たちもたくさんいて、母国が外国になってしまった人も大勢いるわけです。
それが、ソ連の崩壊で、スターリンの時代にソ連に併合を余儀なくされたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国は、いまや「西側」の欧州連合(EU)のメンバーになるほどロシアから離反し、親欧米政権のグルジアとロシアは2008年になってついに戦火を交えるほどの関係になり、CISから脱退しました。そして逆にEUや北大西洋条約機構(NATO)に加盟を求めています。