幕末の榎本武揚(1836~1918)
1808(文化5)年、長崎で起こった「フェートン号事件」(既述)は、38門もの大砲を積む英国艦「フェートン号」が、偽ってオランダの国旗を掲げて来航したことから始まりました。
この事件以降、オランダ船と「旗合わせ」を行うことになりました。これはあらかじめ決めた約束に従って、各種の旗を順番に挙げて行くことにより、偽装を防ぐという方法です。
また、この時期、ロシアと接する北辺も騒々しくなってきましたし、本州南岸には米国の捕鯨船や貨物船も蠢いていました。
こうした情勢を受けて、幕府は1825年、異国船打払令(無二念=むにねん打払令)を発した。日本の沿岸に接近する外国船は、理由を問わず、見つけ次第、即座に砲撃し、追い返すようにしたのです。また、上陸した外国人を逮捕しました。
さらにまた、1837年、三河出身の音吉ら7人の日本人漂流民を乗せた非武装の米国商船「モリソン号」を砲撃して追い払ったのです。この「モリソン号事件」がきっかけとなり、異国船打払令に対する批判が強まりました。
続くアヘン戦争(1840~42)での清の敗北を受け、幕府は1842年には同令を廃止し、薪水を提供して退去させるという方針に変更しました。
旧暦・明治2年3月25日(グレゴリオ暦1869年5月6日)、旧幕府軍艦隊と新政府軍艦隊との宮古湾海戦で旧幕府軍艦隊は軍艦「回天」に米国旗である「星条旗(「高雄」にはロシア国旗)」を掲揚して湾内に進入、フランス海軍士官を艦首に立たたせて進攻、攻撃開始直前にそれぞれを「日の丸」(日章旗)に取り替えて、アボルダージュを決行しました。
アボルタージュを決行した「回天」
すなわち、1868年、榎本武揚(たけあき)麾下(きか)の旧幕府艦隊は、江戸湾を脱出、箱館を占領し、そこに新たな政権の樹立を図りました。しかし、ほどなく最強の旗艦「開陽」を荒天で喪失し、戦力が弱体化してしまいました。
翌年旧暦3月、旧幕府海軍は「甲鉄」「春日」「丁卯」「陽春」の4隻の軍艦と「戊辰丸」「晨風丸」「飛竜丸」「豊安丸」の4隻の軍用船から成る新政府軍艦隊が三陸の宮古湾に入港するとの情報を得たのです。そこで、自軍の「回天」「高雄」「蟠龍」の3艦は外国旗や菊花の旗を立てて新政府の艦隊であるかのように装いつつ、八戸港外の鮫村港経由、宮古湾に進航しました。これによって、戦力を一挙に逆転しよう、特に、新政府軍の旗艦で最強艦である「甲鉄」(当時日本唯一の装甲軍艦)の奪取を図ろうとしてアボルタージュ(接舷戦法)を立案しました。
これは、フランス軍事顧問団のブリュネ大尉と総裁・榎本武揚が承認した戦法でした。この場合のアボルタージュとは、攻撃開始直前に旗を幕府が1854年に定めた日本の「惣船印」である「日の丸」に改め、「甲鉄」に衝突、兵が移乗して舵と機関を奪取するという戦法でした。
これが奇形、すなわち現代国際法でも認められている「他の交戦者に真実を告げる義務がないときの謀計」(陸戦規則24条、ジュネーブ諸条約第1追加議定書37条第2項目)とみなすべきか、不法である背信行為、すなわち、「真実を告げる義務のある謀計」(同23条ロ、ヘ、同追加議定書同条第1項目)とみなすべきかは見解の分かれるところですが、少なくとも宮古湾海戦当時においては、明確な違法行為と断じることが出来ない戦法でした。
ちなみに、現代の国際法では、国際法上、保護される地位にあるとてきに信じ込ませるような外見をして敵を誤らせること、すなわち、休戦旗や降伏旗、赤十字red crossの標章)、さらには、国連旗、中立国の国旗(標識、標章、制服)を使用することは、敵の国旗(同)を使用することと同様、陸戦規則(23条ヘ)やジュネーブ諸条約第1追加議定書(37条1項a.d号)で禁じられています。
ちなみに、「甲鉄」に接舷した「回天」の奇襲は「回天」の船首が「甲鉄」の船腹に乗り上げる形となり、「甲鉄」のきっ水が約3メートルも低いことが攻撃側に災いしたため、乗り移る人数が限られるなど移乗時に苦心しました。これがまた「甲鉄」搭載のガットリング砲にとって格好の標的となって、アボルタージュは完全な失敗に終わりました。
その後の戦闘経過は国旗の話から大きく外れますので、省略します。