最北の地での「日章旗」 – 占守島に「日の丸」が立つまで①


川路聖謨

プチャーチン

1855年2月7日の日魯通好条約で、日露両国は初めて国境を定めました。この交渉は最終的に幕府の海岸防禦御用掛(としあきら、1801~68)とエフィム・プチャーチン提督(1803~83)による協議で決着し、ロシアはアメリカに次いで日本との国交を樹立したのでした。これによって、択捉(えとろふ)島以南を日本の領土に、得撫(うるっぷ)島以北をロシア領土とし、樺太(サハリン)は雑居地として両国民が混住することにしたのです。

ですから、今日、北方領土とか北方4島といわれている歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉島は一度も日本以外の国の領土であったことはない、日本固有の領土だということになり、2月8日は「北方領土の日」と閣議決定され、この日を中心に全国各地で返還要求のためのさまざまな行事が行われます。東京での大会には時の首相や国会に議席を持つ政党すべての代表が出席します。

これによって、択捉島の最北端であるラッキベツ岬は日本の最北端となりました。稚内市に「日本最北端の碑」というのがありますが、これは間違いです。稚内は「日本最北端の市」ではありますが、日本は法と正義にのっとり、歴史的事実を尊重して、矜持を保ちつつ、択捉島までを日本の領土として要求し続けるべきことなのです。

ただ、1855年に択捉島まで国旗「日の丸」が掲げられたわけではありません。日本には国旗として制定されたものがなく、ペリー来航以前に世界の国旗についての本は驚くほど多く10冊程度刊行されている(これについては既に一部紹介していますが、さらに鎖国時代の世界の国旗研究については稿を改めて書く予定です)のですが、全部、諸外国の国旗だけでした。


新田家の一つ引き紋(大中黒)

ペリーやプチャーチンが来たことで日本にも船に掲げる国旗がないといけないと気付いた幕閣は、白黒白の横3段の旗にしようと決定寸前まで行っていたのです。これは「中黒」といって戦国時代の新田義貞の旗印であり、徳川家はその子孫ということになっていたからです。また、当時「日の丸」は幕府の米を運搬する御用船にのみ掲げられる旗印となっていました。


島津斉彬

徳川斉昭

備後福山藩第7代藩主にして老中首座だった
阿部正弘。

薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(なりあきら 1809~58)の提言と水戸藩第9代藩主で幕府の海防掛の任にあった徳川斉昭(なりあき 1800~60)の強硬な押し込みで、老中首座・阿部正弘(1819~57)が「日の丸」を日本の「惣船印」にしたのはこの直後で、しかも、船舶に掲げる国旗であったので、陸上での使用はさらに遅れたのでした。

詳しくは稿を改めます。

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