最北の地での「日章旗」 – 占守島に「日の丸」が立つまで②

1855年の日魯通好条約で、樺太は雑居地とされ、日露両国人が混住していましたが、日本側は漁民たちがいくつかの小さな集落を形成していた程度であったのに対し、ロシア側は盛んに進出しました。政治犯や一般犯罪人をも送り込みました。これらの人たちは極悪の条件のもとで、炭坑開発などに従事させられました。


幕末期の榎本武揚

樺太では完全に押されていた日本は、榎本武揚(たけあき 1836~1908)初代駐露公使による苦心の外交交渉で、1875(明治8)年、樺太千島交換条約を締結、樺太全島をロシア領と認める代わりに、得撫以北、カムチャツカ半島を指呼の間に臨む占守(しゅむしゅ)島までの全千島を平和裏に取得しました。

このあとに、スコットランド民謡のメロディーに歌詞を付けた『蛍の光』に4番ができ、「千島の奥も沖縄も八洲(やしま)のうちの護りなり…」となったのでした。


チェーホフ

その後もロシアは囚人の移送を中心に、樺太への進出は活発で、折からの石炭の需要の伸びもあって、処遇はいよいよ過酷なものになってゆきました。これを危惧した、医師で作家のアントン・チェーホフ(1860~1904)はシベリアをソリと船で東に進み、1890年4月から12月にかけてサハリンの実態を調査し、旅行記『サハリン島』として世に問い、ロシアの貴族社会のみならず、内外に大きなショックを与えました。

他方、日本では、その2年後、1892年(明治25年)7月、明治天皇(1852~1912)が片岡利和侍従(1836~1908)を千島に派遣し、占守島までの千島列島を視察させました。片岡侍従は幕末には脱藩土佐藩士として京都で沖田総司(1844?~68)と斬り合いをしたことがあり、また明治天皇には寵愛され、相撲の相手までしたという人。

これがこの直後にこの方面への開発が緒につくきっかけとなったのでした。同年夏、片岡侍従たちは海軍の柏原長繁大佐率いる軍艦・磐城で帰京しましたが、占守島には、片岡浜という地名ができました。が、極寒の地という気象条件最悪のこの地方の開発は遅れました。もちろん、片岡侍従らはその都度、「日の丸」を掲げ、調査や視察を行いました。これは日本の領土の最北端での国旗の掲揚です。


チェーホフ
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