最北の地での「日章旗」 – 占守島に「日の丸」が立つまで③


1893(明治26)年3月20日、隅田川を出航する送迎セレモニーを描いた錦絵(画・梅堂国政)

56歳の片岡侍従らによる日本の最北端への渡航は、当時の青壮年に大きな影響を与えました。とりわけ有名なのは郡司成忠(1860~1924 文豪・幸田露伴の実兄)をリーダーとする千島探検隊(千島報效義会)が北千島を目指したことでした。1893(明治26)年3月20日、隅田川を、郡司以下約80人の報效義会員が盛大な見送りを受けながら、5隻の短艇(ボート)を手で漕いで千島へと(!)旅立ったのでした。


白瀬 矗(のぶ)

白瀬 矗(のぶ 1861~1946)は陸軍の出身ですが、海軍出身の郡司に懇願し、その情熱を買われ、同行を認められたのでした。

白瀬は秋田県由利郡金浦町の古刹・浄蓮寺の息子。18歳の時、軍人を志し、仙台の第2師団に勤務しました。そこで、一念発起し、1893年、郡司成忠(1860~1924 幕臣・幸田成延の次男、文豪・幸田露伴の実兄)をリーダーとする千島探検隊(千島報效義会)に加わる道を選びました。


白瀬 矗(のぶ)

詳述を避けますが、隅田川からの郡司ら一行の旅程は困難を極め、結局、千島に到着するまでの間に暴風雨で19名もの死者を出しました。それでも、千島列島の捨子古丹(しゃすこたん)島に9名、幌筵(ぱらむしる)島に1名の隊員を越冬隊として残留させました。そして、郡司・白瀬らは同年8月31日に千島列島最北端の占守島に到着したのです。しかし、この10名はいずれも壊血病により、翌年までに死亡または行方不明となってしまいました。栄養学が未だ発展していなかった明治時代、辺境の地にあっては軍隊も探検隊も脚気や壊血病といったビタミン不足に起因する病気が弾丸よりも、怖い死因でした。

それはともかく、海軍はこの渡航そのものを危険すぎるとし、また、強大国ロシアを刺激することになるのではないと危惧し、翌年、郡司らに内地への早期帰還を強く要請しました。また、清国との関係を中心に、極東情勢は風雲急を告げており、北辺の探検に人や船を出せる状況ではなくなっていたのです。郡司は内地帰還を決意しました。

しかし、この時、途中で加わった郡司の父・幸田成延が、千島開発は継続が重要だと主張し、自分を占守島に残置せよと強硬に主張したのです。議論の末、老齢の成延は帰還し、白瀬以下5人が残留を承諾しました。しかし、この2年目の越冬で白瀬を含む4人が壊血病を患い、白瀬以外の3人は死亡。壊血病に罹らなかったのは2人でしたが、うち1人は神経を患い、白瀬も病気による体力の低下がはなはだしくなりました。食料が尽きた白瀬らは、やむなく連れ添ってきた犬を射殺してその肉を食べて飢えを凌ぐこともしました。

この白瀬らの残留組は、日清戦争にさしかかった1895(明治28)年になって日本の軍艦により救出されましたが、白瀬は、悔しくてなりませんでした。郡司により悪条件のまま過酷な状況に追い込まれたことと、予備役であれ軍人である以上、日清戦争(1894~95)に従軍できなかったことを遺憾としたのです。爾来、白瀬は郡司とその父親を恨むようになり、双方の仲は極端に悪化したのでした。

その後、白瀬は探検の意欲を一層募らせ、密漁船でアラスカに渡り、半年間を北緯70度付近で過ごすということもしました。1904(明治37)年2月、日露戦争が勃発、白瀬は6月に第8師団衛生予備廠長に任命され、10月に輜重少尉として出征しました。しかし翌年1月に負傷しました。そして1905年11月、終戦による凱旋し、陸軍輜重兵中尉に任官しました。これが白瀬の最終的な軍歴です。


ロバート・ピアリー

ピアリーが北極点に掲げた46星の「星条旗」

その4年後、1909(明治42)年4月6日、ロバート・ピアリー(アメリカ)ら6人が人類初の北極点到達に成功し、46この星が付いた「星条旗」掲げました(現在では、ピアリーの業績について一部に疑義あり)。

かねて、北極点への人類初到達をめざしていた白瀬は、これを機に目標を一気に南極に転じたのでしたが、白瀬のみならず、この知らせは、当時の世界の探検家のほとんどすべてを、南極点へと向かわせることになりました。 

その後、白瀬は南極に関心を転じ、「日の丸」をかの大陸に最初に掲揚した日本人となったのでした。


大隈重信

「白地に赤く日の丸染めて」の唱歌『日の丸のうた』が発表されてから8ヵ月ほどたったころ、というより、明治天皇崩御の半年前、1912(明治45)年1月28日、「日の丸」は南極大陸の一隅に劇的に翻ったのです。以下、筆者が白瀬の出身地・秋田の生まれで、大隈の創立した早稲田大学の出身だから大きく取り上げるようでいささか面はゆいものを感じますが、ご寛恕ください。

白瀬 矗(のぶ 1861~1946)率いる26人の探検隊が、元首相で早稲田大学総長である大隈重信(1838~1922)は白瀬らへの後援会長であり、その大きな支援により「開南丸」(204tの木造帆船)を入手し、これを駆使して南緯80度5分の地点の南極大陸までたどり着き、その地を「大和雪原」と命名し、「日の丸」を掲げました。

ちなみに、南極観測船「しらせ」の艦名がこの白瀬矗に因んでいるというのは不正確です。自衛艦命名規則によれば個人の名前を直接付与することができないからです。ですから公式には「白瀬氷河」に因むとされています。

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