最大規模で南極に向かったのは、1902年、ロバート・スコットの第一回南極探検隊でした。しかし、この探検隊は、残り733kmの地点で断念せざるを得なくなり、病気によってソリを引く犬の全てを失い、のちに著名な探検家となったアーネスト・シャクルトン(アイルランド出身英国人)も壊血病に倒れ、九死に一生を得ました。
1909年、シャクルトンは次に自らの探検隊を率い、ポニーにソリを引かせたのですが、南極点まであと180kmまで迫った南緯88度23分で、食料が尽き餓死寸前で引き返しました。
2010年2月5日、ニュージーランドの南極歴史遺産トラスト探索チームが、1908年にシャクルトンが建てた小屋の床下から、whiskeyと書かれた木箱3つと、Brandyと表示された木箱2つを取り出したというニュースが世界をかけめぐり、シャクルトンが再び注目されました。
スコットは1910(明治43)年にイギリスの王立地理学協会から支援を受け、科学的な調査をしながら人類初の南極点到達を目標に掲げていました。当時は南極点到達を目指す探検隊が他にはいないと思われ、スコットの栄誉は出発前から称えられていたほどでした。
ロアール・アムンゼン(ノルウェー)
しかし、最初に南極点に到達したのは、ノルウェーのロアール・アムンゼン隊でした。1911年12月14日のことでした。アムンゼンはまた、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となり、まし翌年、報知新聞社の招聘により来日しました。
アムンセンは、まず北西航路横断航海に成功し、次に北極点到達を目指したのです。探検家から政治家に転身したフリチョフ・ナンセン(難民のためのナンセン旅券やUNHCR=国連難民高等弁務官事務所のもとを創設した人)からフラム号を譲り受け、準備を進めたのでしたが、これまた、ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標を南極点に変えた一人でした。ことは密かに準備され、船員にも内緒にして、1910年8月に「北極探検のため」と称してノルウェーを出航、洋上で進路を南にとったのでした。
アムンゼンはその後、大西洋を進む中で出資者やスコットに宛てて南極点に向かうことを通告しました。スコットは寄港したメルボルンでこの電報を受け取り、大いに動揺したと伝えられています。また、白瀬の日本隊の動きも一時は気になったようですが、スキーすら知らない白瀬隊は所詮準備不足で、「一番乗り」のライバルにはなりえませんでした。
アムンセン、スコット両隊を比較すると、南極点までのコースはアムンゼン隊のほうが、距離約1500kmでスコット隊よりも100kmほど短く、食料になるアザラシが大量に生息していたという優位さがありました。また、スコット隊のコースはほとんどが未探索であり、それだけに危険がともないました。
1911年10月20日にアムンゼンは4人の選抜隊とともにフラムハイムの基地を出発、4台の犬ゾリを計52頭に引かせました。好天にも恵まれ、順調に距離を伸ばし、1911年12月14日、ついに人類初の南極点到達を果たしたのでした。帰路も順調で、一人の犠牲者も出すことなく1912年1月25日にフラムハイムへと帰還できました。
アムンゼンは南極点にノルウェーの国旗を立て、わずか3キロ地点に作ったテントには、スコットにあてた手紙を残しました。
アムンゼンは南極からの帰還後もドルニエ・ワール飛行艇や飛行船ノルゲ号による北極点通過を行い、人類初の両極点到達など精力的に活動しました。1927年には報知新聞の招待で来日しています。
しかし、1928年、飛行船イタリア号によるイタリア探検隊のウンベルト・ノビレ隊の捜索に飛行機で向かっている間に、行方不明となりました。