満艦飾をした開南丸。満艦飾をしていることから、出発前の芝浦桟橋での撮影と思われます。
1910年、白瀬 矗(のぶ)は国民からの義捐金を基盤に南極探検の可能性を探りました。このためには、かねて険悪の仲となっていた郡司にも頭を下げ、積載量204トンという小さな木造帆漁船を買い取り、これに中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を行い、日露戦争の日本海大海戦で一躍英雄となった東郷平八郎が名付け親になり、「開南丸」が就航しました。極地での輸送力は29頭の犬でした。
1910年11月29日、開南丸は東京湾の芝浦埠頭を出港しましたが、極地での輸送力として期待された犬のほとんどが寄生虫症(のちに判明)で亡くなりました。さらに、白瀬と事務局長、船長と隊員との間に不和が起こってしまいました。
大和雪原で「日の丸」と白瀬隊の旗を掲げて祈る白瀬ら。
その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーへ戻った多田事務局長を加えた隊は、一応、白瀬と和解して再び南極を目指して11月19日に出港。翌年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名しました。アムンゼンが南極点に達したのは約ひと月前、前年の12月14日、スコットが南極点に到達したのは白瀬が上陸した翌日でした。
白瀬隊は1月20日に極地に向け出発しました。この時までに南極点到達を断念し、学術調査と領土の確保に目的を変更しました。しかし、探検隊の前進は困難を極め、帰路の食料を考え、28日に南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、「日の丸」を掲揚して、「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言したのでした。但し、この行為で国際法的に領土が確保されたとは言い難く、加えて、第二次世界大戦の敗戦により、日本は南極大陸での領有主張を放棄しました。また、この地点は棚氷であり、領有しうる陸地ではないことも後に判明しました。
そこから北極点到達を目指したのですが、日露戦争のため果たせず、白瀬自身は現役に復帰して同戦争に従軍し、残留者たちは自発的にカムシャツカ半島に上陸作戦を敢行、全員「捕虜」になりました。
しかし、1909年、アメリカの探検隊が北極点に到達したということが伝えられると、白瀬は関心を南に転じたのです。すなわち、翌年11月29日、東京・芝浦を発ち、ロス海に入りましたが、既に1911年も3月となったためシドニーに引返し、12年1月16日、再度ロス棚氷に向い南極大陸に上陸、30頭の樺太犬に2つのソリを引かせて、5人でロス棚氷を南進、「開南湾」「大和雪原」「大隈湾」などを命名、同28日に「日の丸」を掲揚した後は、食料不足などから探検を断念して帰国の途につきました。
1960年11月29日、白瀬らが南極探検にむけて芝浦桟橋を発ってから50周年の日に、これを記念する切手が発行されました。そして、2010年の同じ日、今度は100周年を記念して東京都港区と秋田県とが共催し、「白瀬探検隊出航行事」が港区中央会館で開催され、なんと本稿の著者は、「<秋田>出身で<港区>虎の門でユーラシア21研究所を主宰している」というご縁から、秋田出身の作曲家・成田為三の『浜辺の歌』を独唱するということになったのでした。白瀬先輩に申し訳なかったと、今度、今年2月28日に国立極地研究所(立川市)の構内にできた白瀬の記念碑に合掌してきたいものです。この碑は、秋田大教育文化学部の石井宏一准教授(構成学・基礎造形学)の製作になるものです。
なお、ほかに白瀬が生まれた秋田県にかほ市に白瀬の墓と「白瀬南極探検隊記念館」が、また、愛知県西尾市吉良町に「大和雪原開拓者之墓」と彫った墓碑があります。