15世紀、ポルトガルの王室は大西洋に果敢に船を出しました。その結果、バルトロメウ・ディアス(1450頃~1500)は1488年5月、喜望峰に到達し、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524)をヴェルデ岬まで案内し、ガマはインド航路を開き、ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467/1468~ 1520)が率いた第2回インド遠征隊は1500年4月22日、ブラジルに「漂着」したのでした(第1回インド遠征隊を率いたのはヴァスコ・ダ・ガマ)。
もっとも、ブラジルに最初に到着したのは、スペイン人ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン(1460頃〜没年不明)です。カブラルより3ヶ月ほど早かったのですが、ピンソン自身が自分が到着したのはインドであると思い込み、ブラジルに最初に到達したヨーロッパ人という栄誉は、以後、一般にはカブラルにあると理解されています。
ポルトガルが多くの探検家や宣教師を輩出した“本拠地”は1559年に、イエズス会が創設したでした。エヴォラはポルトガル南東部アレンテージョ地方にある町で、ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄ったという歴史があります。
バルトロメウ・ディアス
(喜望峰に到達)
ヴァスコ・ダ・ガマ
(インドのゴアに到達)
ペドロ・アルヴァレス・カブラル
(ブラジルに到達)
トルデシリャス条約
高校の世界史でおなじみのトルデシリャス条約(スペイン語:Tratado de Tordesillas, ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas)は、教皇アレクサンデル6世の権威を背景に、1494年6月7日にポルトガルとスペインとのグローバルな勢力分割の方式を決めたものです。この条約により、西アフリカは今のセネガル共和国のヴェルデ岬のはるか洋上に浮かぶカーボベルデ諸島、そのさらに西370リーグ(1770km)の海上をで通る子午線、すなわち西経46度37分の東側がポルトガルの勢力下に、西側がスペインにと決定されました。トルデシリャスという名は、条約が署名されたスペインのカスティーリャ地方の地名です。1529年両国は、サラゴサ条約によって、この勢力分割を調整し、さらに確立しました。
トルデシリャス条約(赤)とサラゴサ条約(緑)の境界線
スペインはこの条約により、新大陸(南北アメリカ大陸)の全域で優先権を持つことができました。ただ、現在のブラジル地方については、1500年にポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルが「最初に」到達したため、ポルトガルの優先権が認められました。
なお、同条約から500年後、1982年のフォークランド紛争の際、アルゼンチンはマルビナス(フォークランド)諸島領有の根拠としてトルデシリャス条約を持ち出しており、敗戦した今でも自国に領有権があると主張し続けているのです。
フェルディナンド・マゼラン(1480~1521)もまたポルトガルの人。マゼラン海峡、マゼラン星雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど航海者マゼランの名にちなむものが今日までたくさんあります。また太平洋やパタゴニアもマゼランが付けたと伝えられています。マゼランは1519年香料の島として知られていたモルッカ諸島へ行くためのヨーロッパからの西回りルート発見を目指したのでした。マゼランは南アメリカ大陸南端の海峡(今日のマゼラン海峡)を発見して太平洋に至り、1521年フィリピンに到達したのですが、現地人との先頭で斃れたのでした。残された艦隊が翌年史上初の世界一周を達成しました。しかし、この艦隊は、スペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いての渡航でしたので、必ずしもポルトガルの成果とはいえないでしょう。
フェルディナンド・マゼラン
クリストファ・コロンブス
マゼラン亡きあと、艦隊はフアン・セバスティアン・エルカーノが率い、世界一周を成し遂げて帰還すると、ポルトガルとスペインとの関係に新しい疑問が起きました。
それは特に、モルッカ諸島の帰属をめぐってのものでした。モルッカ諸島(マルク諸島)は、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島です。 スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置します。歴史的に香料諸島Spice Islandsとして特に中国人やアラブ人の間で有名であり、西洋人も知るところとなり、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなど相次いで侵攻し、最終的には香料の種子を盗み、英仏両国がモーリシャスや他のインド洋の島々に移植して香料諸島としてのモルッカ諸島の価値を大幅に削減してしまいました。それでも今でもモルッカ諸島ではサゴヤシの他、ナツメグ、クローブといった香辛料など商品価値の高い農産物を生産しています。
同様に、同じポルトガルを宗主国としたブラジルからもイギリスはゴムの木を運び出し、自国領だったマレー半島で一大産業にしました。
1529年4月22日の「サラゴサ条約」は、要するに、太平洋におけるポルトガルとスペインの姓リョ言う範囲を決めたもので、この条約によってポルトガルはモルッカ諸島とマカオの地位を保全と引き換えに、スペインに一定の賠償金を支払って解決したのでした。
クリストファ・コロンブス(1451頃~1506)はイタリアのジェノヴァの人であり、マゼランと同じく、スペインの艦隊を率い、十字架の幟のような旗を掲げて、大西洋を横断したのでした。十字架には「F」と「I」の2文字が描かれていました。1479年、イサベル女王のカスティリャとフェルディナンド王のアラゴンとが合併して、最初のエスパニューラ(スペイン)王国が出来たのを記念してのコロンウスの壮挙には二人のイニシャルを掲げる旗が用いられたのでした。
1492年、コロンブスが最初に到達したのはバハマ。そのあと、キューバやエスパニョール島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)でした。
コロンブスはこの後さらに今日のカリブ海諸国を次々に発見して行きました。