レバノン杉の栄光と衰退、そして復活の物語④ – レバノンスギ救済作戦


レバノンの国旗

レバノンの国旗の中央に描かれている「レバノン杉」の過去と現在を理解すべく、安田喜憲教授の『森と文明の物語 ― 環境考古学は語る』(ちくま新書)「第1章 香わしき森の悲劇」からの抜粋(その3回目)です。


雪を戴くヘルモン山。
レバノンのブッシャリ地区でもたったこれだけしか、レバノンスギは残っていないのです。
(安田先生撮影)

前にも述べたように、レバノンスギはスギという日本名がついているが、マツ科の樹木である。日本はここ20年の間、激しいマツクイムシの被害にみまわれた。とりわけ被害の著しかったのは瀬戸内海沿岸である。この被害との闘いのおかげでマツクイムシに対す対策が練られ、技術がかなり発達してきたのである。

私はこの技術を、樹勢の衰えの目立つレバノンスギを救うために役立てることはできないものだろうかと考えた。現地でもマロン派の司教を中心として、いろいろと手を尽くしているようであるが、その成果は上がっていないようだった。司教は私に、なんとか日本に援助の手をさし伸べてもらえないだろうかと訴えた。サンプルとして、輪切りにしたレバノンスギまで手渡された。

私は、その貴重なレバノンスギのサンプルとともに帰国の途についた。早速かつての職場の同僚であった広島大学の中根周歩に連絡をとって、相談をもちかけてみた。彼は長年、マツクイムシの研究を続けてきた研究者である。彼の紹介で、マツの活力剤を作っているイービーエス産興(広島市)という会社を知った。活力剤とは、虫害などによって衰弱した樹木を蘇生させる薬品である。社長の戎 浩二は、快くその活力剤の無料提供を申し出てくれたのである。

この話題はニュースとして、1994年1月4日の朝日新聞朝刊と2月25日のジャパン・タイムズ紙、そして1995年1月14日の読売新聞の社説に取り上げられた。新聞をみて、東京からは「レバノンスギの苗木を植えてみてはどうか。わずかですが」と基金を送ってくださったかたもあった。そして1995年6月に、三菱総研の笠原直哉、マイアソシエイツの山下宮子らの協力を得て、国際レバノンスギ協会を設立することになった。会長は梅原猛で、代表者を私が努めることとなった。

これから、いよいよレバノンスギの森を再生させる作業に取り組む。

ギルガメシュ王の予言

ギルガメシュ王が森の神フンババを殺し、森を破壊してから5000年の歳月が流れた。王は、「やがて森はなくなり、地上には人間と人間によって飼育された動・植物だけしか残らなくなるだろう」と予言したが、王の予言は正しかった。レバノン山脈の一遇に生き残った小さなレバノンスギの森が、そのことを雄弁に物語っていた。ギルガメシュ王はまた「それは人間の滅びに通ずる道だ」とも言って息絶えた。6000年の間、レバノンスギの巨木は人間の破壊と暴虐を見続けてきた。ひょっとしたら、人間の滅亡の瞬間をも見ることになるかもしれない。レバノンスギだけではない。果てしない宗教戦争の泥沼のなかで、レバノンをはじめ中近東の国々は苦悩している。

レバノンスギの森を復活させることは不可能なのだろうか。レバノンの大地を、レバノンスギで埋めつくすことができる日を私は夢みている。

安田喜憲教授の「レバノンの大地を、レバノンスギで埋めつくすことができる日」の夢はその後、少しずつではあるが、着実に前に進んでいるそうです。人間が破壊した環境を復活させるという人類史でも貴重な歩みが進んでいるのです。

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