私が初めてカンボジアを訪れ、この遺跡を訪問したのは1969年の3月でした。シエムレアプのホテルから象に乗ってというのんびりしたものでした。カンボジアは小乗仏教の信仰厚い国民と、指導者ノロドム・シアヌーク殿下の施政よろしきを得て、少なくとも表面上は静かな農村の広がりと、フランスの影響の濃い都市文化が並存した落ち着いた暮らしぶりでした。
この地を領有していたフランスは古くからその管理と補修に努めてきましたが、70年3月のロン・ノル将軍らによるクーデタ以来、国中が混乱に陥り、アンコールワットはほとんど手入れをされることなく、というより、戦火の続く中で多くの破壊や略奪にあいながら野ざらしにされてきました。加えて、巨大な熱帯植物が繁茂して石組みを持ち上げ、時には一部が崩壊するなど、傷みが酷いのです。
そうした中で1975年、中国の「4人組」時代の政治や文化大革命の影響を強く受けたクメール・ルージュ(ポル・ポト派)がカンボジア全土を支配し、アンコールワットの彫刻や遺跡に特段の敬意を払うことなく、むしろ手ひどい破壊行為を行ないました。一部の兵士の占拠にあったり、彫刻が削り取られたり、盗掘されたりしてかなりの人的被害がありました。
1979年、ヘン・サムリン将軍を担いだベトナム軍にクメール・ルージュが首都プノンペンを追われると、ポル・ポト派はアンコールワットの周辺にも逃れて来ました。それでも、民族の誇りであり、世界的な文化遺産であることから、攻守ともども攻撃にあたってはアンコールワットへの重砲の使用をためらいました。
ポル・ポト政権崩壊直後の1980年には今、日本赤十字社の社長をしている畏友・近衞忠煇氏を誘って、ふたりでゴーストタウン化した首都プノンペンやいくつかの「元」都市を回りましたが、アンコールワットまでは脚を伸ばせませんでした。
内戦は93年10月の「パリ和平協定」で終焉しました。こうした混乱にあっても、この間、各派はいずれも、アンコールワットを大きく取り入れた旗を掲げていました。そして、ヘン・サムリン政権時代の1992年、アンコール遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録されました。
ヘン・サムリンを継いだ形のフン・セン政権下は、クメール・ルージュを完全に駆逐・消滅させました。アンコールワットが戦火にさらされたのではないか、右近太夫の“落書き”はどうなっているか心配していた私は95年にまた、この世界遺産を訪問しましたが、右近太夫の“落書き”は判然としなくなっていました。
現在のカンボジアは国内政治は一応安定しているといえましょう。
こうした中で、アンコールワットでは日本(特に上智大学)、インド、フランスなど各国の資金と技術の協力をえて、修復活動を進めており、対人地雷密集地であった寺院周辺では地雷の撤去も進捗し、各国から大勢の観光客が押し寄せています。