ジョン万次郎滞米の9年間に5回変わった「星条旗」

中濱 萬次郎(ジョン万次郎、1827~98)は
日本人で初めて鉄道や蒸気船に乗った人、
日本人で初めて近代式捕鯨に携わった人、
日本人で初めてネクタイをした人、
日本に初めて『ABCの歌』を紹介した人、
日本人で初めて男女平等の世界があることを知った人、
日本人で初めて人種差別を経験した人、
日本人で初めて民主主義国家に居住した人、
日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった人
である。


ジョン万次郎、1880年頃

鎖国時代の1841年、万次郎14歳の時、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師4人と共に難破した。九死に一生を得たこの遭難が万次郎の人生を劇的に換えた。

5日半の漂流後、奇跡的に小笠原諸島の1つ鳥島(無人島)に漂着し、そこで143日間生き延び、たまたま通りかかった米捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。

聡明で気立てのよい万次郎は、すぐにアメリカ人の乗組員たちの間で人気者になり、彼らから「ジョン・マン」というニックネームをもらい、彼らと一緒にマサチューセッツ州のフェアヘブンに渡り、アメリカの教育を受けました。そこで万次郎は捕鯨船の船長だったウィリアム・H・ホイットフィールド船長の養子となり、世話をしてもらいながら、1843年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間を惜しんでガリ勉を続け、見事、首席として卒業した。自由、民主主義、寛容の精神等、アメリカの文化・価値観を学んだ。初めて見る世界地図で日本の小ささに驚くということもあった。

卒業後は捕鯨船員となり、船員仲間の投票により船長が選ばれることになった。2人の得票が同数1位になったので、年長者に船長の地位を譲った。1846年からの数年間、万次郎は捕鯨船員としてクジラを追う生活をした。

1850年5月、帰国を決意、資金づくりを目的に、折からゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、金の採鉱夫になった。そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、そこで土佐の漁師仲間と再会。1850年12月17日、この仲間たちとともに上海行きの商船アドベンチャー号に乗り、出航した。


ミシガンの州昇格に伴う26星の「星条旗」
(1837~45)

フロリダの州昇格により27星の「星条旗」
(1845~46)

テキサスの州昇格による28星の「星条旗」
(1847~47)

アイオアの州昇格で29星になった「星条旗」
(1847~48)

ウィスコンシンの州昇格で30星となった「星条旗」
(1848~51)

万次郎がアメリカに滞在したのは、1841年から50年までのおよそ9年間。米捕鯨船ジョン・ハウランド号で救われた当時の米国旗は、ミシガンの州昇格に伴う26星の「星条旗」。

45年7月4日にフロリダの州昇格により27星の「星条旗」となり、これは1年間でテキサスの州昇格による28星となり、さらに47年にはアイオアの州昇格で29星、48年にはウィスコンシンの州昇格で30星となるという、アメリカがどんどん周辺に拡大して行った時期。帰国時に乗った商船アドベンチャー号はその30星の「星条旗」を掲げていた。万次郎が9年間、滞米している間に「星条旗」は26星から30星にまでなったのだった。

このほど集英社から『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』を上梓した米児童文学作家のマギー・プロイスさんは「まるでハリウッドの冒険映画の主人公。こんな人が実在したなんて」と述べたと朝日新聞(2012年8月22日付)の「ひと」欄で語っている。この作品は昨年、アメリカの最も優れた児童文学に与えられる「ニューベリー賞」を授与された。

1851年2月2日、琉球に上陸、尋問を受けた後に薩摩に送られた。万次郎たちは、薩摩藩や長崎奉行所などで長期間尋問を受けた。1852年に河田小龍がその取り調べ報告書『「漂巽紀略』」を執筆した。その際に薩摩藩主・島津斉彬が万次郎の英語力や造船に関する知識に注目した。これが因で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしたし、和洋折衷船の越通船建造にも寄与した。


1992年財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター(CIE)が設立され、国際交流の促進にあたっている。会長はあの小沢一郎氏。

万次郎は帰国から約2年後の1853年にようやく故郷の土佐に戻ることが出来た。ちなみに、この間、日本には国旗としての「日の丸」はなかった。詳しくは別に述べるし、拙著『知っておきたい「日の丸」の話』(学研新書)に詳しいが、3~5つの赤い丸を幟に並べて掲揚した場合、その船は、幕府の御用船として米の輸送にあたっていることを示すものであり、薩摩藩主の島津斉彬(1809~58)や水戸藩主の徳川斉昭(1800~60)ら開明派の建言により、ペリー来航直後の1854年になって幕府は老中・阿部日本の総船印として、日章旗を制定したのであった。


島津斉彬

徳川斉昭

話を万次郎に戻す。幕府はペリーの来航に対応できる人物を必要とし、貴重な英語使いとして万次郎は幕府に召し出され、1854年、一躍、旗本・軍艦教授所教授に任命された。このとき、故郷にちなむ「中濱」の苗字が授けられた。在任中は、英会話書『日米対話捷径』を上梓し、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、造船の指揮、講演、通訳、船の買付などで精力的に働く。

この異様とも言うべき出世には当然、周辺のやっかみも強く、結果的にペリーとの通訳にはなれなかったが、実際には日米和親条約(1854)の締結に向け、陰ながら助言や進言をし、尽力した。万次郎の体験談やその世界観に影響を受けた者は、同郷土佐の坂本龍馬はじめとする海援隊関係者など数多くいる。

そして、1860年には、日米修好通商条約の批准書交換のため訪米した万延元年遣米使節団の1人として、咸臨丸でアメリカに渡る。船長の勝海舟は船酔いがひどく、まともな指揮を執れなかったため、万次郎が代わって船内の秩序保持に努めた。帰国後、1861年には同じ咸臨丸で小笠原諸島等の開拓調査に向かった。

1866年に万次郎は土佐藩の開成館に赴任する。また、後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔」を購入するということもした。

明治維新後、開成学校(現・東京大学)の教授に任命される、また、1870年には普仏戦争視察団として欧州へ派遣される。その後の万次郎必ずしも、新政府に重用されたわけではなかった。日本でのしっかりした教育を受けていなかったことによる和訳した日本語の不十分さが大きな理由であったという見方をする人もいる。私の想像ではあるが、日本語の公式な文書を書くような教育を受けてもいないし、階級社会にあっては、あるいは、日本語の用い方にも限界があったのではないだろうか。


ジョン万次郎像(足摺岬)

160年経った今なお、ジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情は、その子孫の代まで引き継がれている。毎年ホイットフィールド家と中濱家は、CIEが主催する草の根交流サミット大会で、草の根交流の可能性と意義の大きさを伝え続けているという。

そして万次郎が帰国してから110年後の1960年、ハワイの州昇格で50星となり、その後52年間、「星条旗」は変更されていない。つまり、万次郎が滞米していた9年間はまさに、アメリカが国家として急成長を遂げていた時代であり、国旗制定を目前にしたわが国はまさに、「夜明け前」の時代であったということである。

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