そこまでと同じくらいの距離を進んだところに鳥島がある。話題の尖閣諸島の北小島、南尾島とこの鳥島にだけ、アホウドリがベーリング海方面から冬季に飛来して、自然繁殖している。
アホウドリ
鳥島はまた、ジョン万次郎たちが遭難し、5か月近い143日間も耐え抜き、米捕鯨船ジョンハウランド号(ホイットフィールド船長)に救助されたとところでもある。
鳥島はもちろん日本の領土であり、東京都に所属し、八丈支庁の所轄地域であるが、いずれの市町村にも属していない。また、火山爆発の恐れがあり、管理する定住者がいないため、国旗も立っていない。新田次郎が『火の島』で、大噴火直前の気象観測所員たちの心理と行動を見事に描き上げている。
鳥島は特別天然記念物アホウドリなどの繁殖地として有名で、かつては、鳥が一斉に飛び立つと島全体が浮き上がるように見えたと比喩されるほど多くの海鳥がいた。アホウドリは信天翁と書き、英語ではalbatross。今ではゴルフ用語として人口に膾炙するが、人が近づいても逃げないため、極めて容易に捕獲されてしまう性質がある。
1930年(昭和5年)、元皇族である山階芳麿理博(侯爵、山階鳥類研究所創設者、1900~89)による調査を初めとして、生態観察と保護のためさまざまな学術調査が行われてきた。
他方、羽毛採取や食肉採取の目的での乱獲もすさまじいものがあった。八丈島出身の玉置半右衛門(1838~1910)の手によって1887年(明治20年)から捕獲が始まった。羽毛は欧米で布団用に輸出され、貴重な外貨獲得商品となった。
南大東島にある玉置半右衛門の銅像
(「アームチェアのバードウォッチャー」さんのHPより)
半右衛門は流人の一人から大工の技術を学び働き始めた。19歳の時に一度江戸に出るが、商売に失敗、翌年から2年間は開港直後の横浜で大工仕事に従事、この時に羽毛布団が欧米人に愛用されることを知った。
1862(文久2)年、幕府の小笠原諸島の開拓民募集を知ると、半右衛門はこれに応じて父島に渡った。しかし、幕府の命によって開拓は短期間で中止され、半右衛門は八丈島に帰島した。1876(明治9)年に明治政府は小笠原諸島の領有を宣言し、各国に通知すると、再び小笠原諸島開拓を計画した。半右衛門は再度その募集に応じた。だが、今度は開拓局の役人たちと対立し、2年後には島を離れてしまうことになった。
その後、半右衛門は八丈島と東京を結ぶ回漕業で、また、妻は八丈島名産の黄八丈の販売で財をなした。しかし、半右衛門の夢は無人島開拓、西洋人たちが好む羽毛布団の原料に目を付けた。父島への途次にある鳥島にアホウドリが無数に生息することを知った半右衛門は、東京府から鳥島無料拝借の許可を得、1888(明治21)年に数十人の人足とともに島に渡り、アホウドリを捕獲し、巨万の財を得た。
1933(昭和8)年に捕獲禁止されるまで推定約1,000万羽が乱獲され、捕獲禁止時点では50羽ほどしか生息していなかったとされる。
戦後、1949年、アメリカ人鳥類学者オースチンの調査では絶滅の可能性も指摘されたが、1952年に気象庁鳥島気象観測所所長の山本正司が再発見した。以後、同観測所職員らにより保護プロジェクトが行われ、1965年の群発地震によってこの観測所が閉鎖されるまで保護活動が行われた。
1981年より環境庁(現環境省)によるアホウドリの生息状況調査と保護・保全活動が活発に行われ、毎年数回、上陸調査が実施され、着実に個体数は増え、小笠原島への移住も試みられている。
このほか、ウィキペディなどによると、オーストンウミツバメも数万から十数万羽規模で繁殖していたが、人間とともに移入されたネコ(現在は死滅)とクマネズミによる捕食で激減し、特に1965年に無人島化してからは、残ったクマネズミがコロニーを消滅させてしまった。現在も多数生息するクマネズミを排除することも、鳥島の自然回復のポイントとなっている。
また、カンムリウミスズメやクロアシアホウドリなどの海鳥、猛禽類のチョウゲンボウ、イソヒヨドリやウグイスなどの鳥類が確認されているが、両生類や爬虫類は確認されていない。
これらの生物相の特徴に加え、比較的最近の火山現象が観察できることから鳥島は植物・動物・地質鉱物の全ての点において貴重であると判断されたため1965(昭和40)年5月10日に国の「天然保護区域」として指定された。
1900(明治33)年、半右衛門は無人島開拓の夢を広げ、沖縄県南大東島へ入植者を送った。サトウキビの栽培により、見事に精糖事業を軌道に乗せた。入植費用と生活費は自らが出し、30年後、入植者には現地の土地が与えられる約束であった。島には病院や学校、トロッコ鉄道や防風林も整備された。しかし、現地の指揮にあたった息子の鍋太郎と鎌三郎は放蕩に明け暮れ、入植者から「鍋大将」「鎌大将」と揶揄された。
悲劇がこのあと起こった。1902(明治35)年、鳥島が大噴火し、半右衛門傘下の人足ら全島民125人が亡くなった。
半右衛門自身は家族とともに1893年以来東京に移住していて無事だったが、この悲劇に際し、事業再開のための現地調査に赴いた。しかし、過労から肝臓を患い、1910(明治43年に亡くなった。享年73。そして、創業者亡きあと、南大東島での事業は吸収され、玉置家の手から離れた。
小笠原諸島には火山が多い。特に鳥島はいわゆる第四紀火山であり、記録に残っているものだけでも1871年、1902年、1939年、2002年の4回、大きな噴火が確認されている。
江戸時代の無人島時代には万次郎たちばかりではなく、多くの船が鳥島に漂着しており、たとえば土佐の漁師長平(野村長平)はアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した者たちと一緒に船を造って青ヶ島への脱出を果たした。作家・吉村昭によるとこの島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上ある。
また、最近でも、2012年1月1日に鳥島近海でM7.0の大きな地震が発生した。
鳥島は日本の領土でありながら、無人島のままであり、管理する者なきまま、今日では「日の丸」1つ立っていない。もし、立てることが出来たら、私は喪章付の「日の丸」を立てて、噴火で亡くなられた大勢の人たちとアホウドリを供養したいものだ。