今から200年前、1812年ころ(江戸後期・文化年間)は日本周辺でも「波高し」でした。
レザノフ
文化元(1804)年にはロシア皇帝からの使節ニコライ・レザノフ(1764~1807)が長崎に来航し、国交を開き通商することを求めました。これは1792年に、根室を訪れ、日本人漂流民・大黒屋光太夫らを帰還させつつ通商を求めたアダム・ラクスマンと、老中・松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたことについて、レザノフがその履行を求めたものでした。
レザノフ来航を描いた絵図
フェートン号。この絵では英国海上旗を掲げているが、オランダ入港にあたっては欺いてオランダの国旗に換えた。
文化5(1808)年には英国船が欺いてオランダの国旗を掲げて長崎に入港、これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名は、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのためフェートン号に向かったところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼンルマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求した。武力で追い払おうとしたがかないそうにないことから、長崎奉行・松平康英は要求に応じ、自決するという「フェートン号事件」が起こりました。
ゴロヴニンの肖像をあしらったロシアの切手
そして文化9(1812)年、まさにナポレオンが大軍をロシアに差し向けた時、国後島南部海域でロシアのゴロヴニン海軍少佐が日本側に捉われるという緊迫した動きがありました。
既に小欄で述べたように、松浦静山が『甲子夜話』で、現存する資料としてはわが国で最初に外国旗について記述したのもまさにこのころです。詳しくは、このHPの<「甲子夜話」の実際の内容>に書きました。
さまざまな思いの中で、200年前のフランスロシア大戦争を描いたチャイコフスキーの名曲「大序曲 1892年」をYouTubeでお聴きください。お勧めは自衛隊音楽隊による本物の大砲の加わった演奏です。