教科書で見る国旗Ⅱ – 日の丸の歌②


高野辰之

「日の丸の歌」作詞者・高野辰之(1876~ 1947)については、研究者の間に若干の異説なしとしない。乙骨三郎(1881~ 1934)が作詞したのではないかという説も根強いからです。

が、ここでは金田一春彦・安西愛子編の『日本の唱歌(明治篇)』をはじめとする多数説に従い、高野の作詞として先に進みます。金田一・安西の本には次のように、高野の経歴と人柄が紹介されています。

国文学者。号は「斑山」。長野県の下水内郡の農家に出生。長野師範を卒業。中等教員国語科に合格して、学界に入った。日本の歌謡史の開拓者として高名があり、その著『日本歌謡史』によって文学博士の学位号を与えられ、さらに学士院賞の対象ともなった。長く東京音楽学校の教授をつとめ、かたわら東京大学の講師として「日本演劇史」を講じたが、一杯機嫌のいい顔色で、堂々たる巨躯を教壇に運び、当時はじめて許可された女子聴講生が花園のように大勢出席している教室で、淑女を前にしては如何と思われるような際どい漫談をやり、人気があった。

恥ずかしながら筆者は還暦をすぎてから声楽のレッスンに通っています。師事したのは松田トシ先生。数年前に卒寿をお祝いしたが、2011年12月、96歳で永眠された。ご逝去の1年前まですこぶる元気に私の歌唱の「色気」の乏しさを嘆き、叱り、指導してくださいました。その松田先生、上野の音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)で高野辰之から直接、指導を受けておられます。

「謹厳故事のようなお姿でいながら、結構、いろいろお話なさるのよ。授業の面白さ、楽しさったらなかったわ」。
参議院議員も務められた安西愛子先生は上野でその1年後輩にあたられます。お二人は戦後、NHK「うたのおばさん」として、毎朝、8時45分から唱歌・童謡を歌っていたことを、55歳以下の人はもう、ほとんど知らないかもしれません。40歳以上くらいの人からは「松田トシ? スター誕生の毒舌審査員ね」という声は聞くことがあります。ですから私には、岩崎宏美・良美姉妹、新沼謙治、神野美伽といった歌謡曲の歌手やテナーの石井健三といった「兄姉弟子」がいることになります。

それはともかく、私はこの「日の丸の歌」が高野の作詞になるものであることを知った時、これが軍人やコチコチの軍国主義者が作った歌でないことにほっとした。高野が「兎追いしかの山…」(故郷)、「春の小川は さらさら行くよ」(春の小川)、「春が来た 春が来た どこに来た…」(春が来た)、「菜の花畑に 入り日うすれ…」(朧月夜)、「秋の夕日に照る山紅葉…」(紅葉)と、歌い出すだけで涙ぐんでいそうな懐かしい歌と同じ作詞者であることが嬉しいのです。高野については今では東京都知事になった猪瀬直樹さんに、長文の優れたノンフィクションがあります。

「日の丸の歌」の歌詞はその後、時代の流れでさまざまに変えられました。それでも今日、3教科書出版会社がすべてこの歌を教科書に掲載しています。

私事を重ねて恐縮ですが、私は幼時に三兄からハーモニカを習いました。最初の曲はこの曲だったし、母から木琴を習ったときもそうでした。ヨナ抜き(ファとシがない音階)でわずか5音しかなく、リズムも平板だからということが初心者向けなのだと思います。

これが、もし、「日の丸」が敗戦直後のわが故郷・秋田の片田舎の庶民に受け入れられていなかったら、兄も母も、よもやこの歌を教えはしなかったのではないでしょうか。

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