アフリカ北東部に位置するジブチはイエメンのアデンの対岸にあります。アデンは古来、港湾都市として栄え、近代以降は英国にとって戦略的要衝であり、アジアからヨーロッパに行く場合のスエズ地峡(運河)に入る最後の港として、栄えたところです。
2007年、日本外務省はそれまでジブチの国旗はこのデザインであるとしてきたのを訂正し、上のデザインであるとしました。
19世紀後半、これに対抗するフランスがスエズ運河の建設にあわせて対岸のオボック港を租借、次第に拡大しフランス領ソマリランドとして植民地化しました。また、タジュラ湾岸に港町ジブチを開き、エチオピアの首都アディスアベバと結ぶ鉄道が建設され、その戦略性は一層高まり、かつ、内陸国エチオピアにとっての海への出口となっていったのでした。
20世紀後半にあっては、アデンを首都とする南イエメンがソ連と友好関係にあり、その海軍基地が設けられたこともありますが、近年はアメリカがこの要衝を活用しています。
しかし、この地域にはソマリア系のイッサ族とエチオピア系のアファル族の対立があり、また、識字率の低さもあって、独立への道のりは遠く、また、独立後も国家運営を困難にしています。すなわち、1967年になっても、住民投票によって引き続きフランス領であることを選択し、その後、名前だけはフランス領アファル・イッサと改称されました。引き続き行われた議会議員選挙でアファル族の進歩党が圧勝し、また、他方のイッサ族を基盤とする独立アフリカ人民同盟も勢力をのばし、独立は強い要求となりました。
その結果、10年後の77年、ジブチ共和国として独立し、イッサ族出身のグレド大統領が選出されました。しかし、部族対立は1991年に内戦が勃発するまでに至りました。グレド大統領は懸命に脱部族政策を推進し、大統領の直接選挙制をも導入しました。これをもとに同大統領は1993年に4選を果たし、その後、1999年に後継のゲレが大統領に当選、2001年にようやく内戦が終結しました。
また、国境を巡っては隣国エリトリアと対立しており、1990年には二度の軍事衝突が起きています。停戦には至りましたが、2008年6月に再び両軍の間で戦闘が起き、ジブチ政府は、エリトリアが再び国境線に軍を増強しているとして非難し、国際社会の介入を求めました。
近年、のソマリア沖での海賊問題は、日本はもとより国際社会にとって重大な脅威となっています。このためわが国の自衛隊も「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」に基づき哨戒機2機を派遣して国際的対応の一翼を担っています。当初は米軍、EU各国軍と協力を得て活動していましたが、2011年7月7日、自衛隊の海外拠点がジブチに開設されました。これは海賊対策の強化が目的ですが、自衛隊にとっては事実上、初の海外での自衛隊員常駐基地となりました。
ジブチは本当に暑い地域です。私が33年間関わってきた難民を助ける会では内戦当時の80年代、寺家村(じけむら)博ボランティア(現・拓殖大学教授=フランス語)など数名を派遣し、数次にわたり、基礎的な生活用品や医薬品を配布したが、「おやぁ、暑かったです。最高気温は50度Cにも達することがありました。それでも日陰に入ると我慢できるんですよね」と異口同音に語っていたのが今も頭に残っています。
新設の日本大使館は、当面、駐留する自衛隊の海賊対策をバックアップするのが最大の任務だろうが、アフリカ東部唯一のフランス語圏の国の大使館として、アフリカ、中東、欧州にネットを張る情報上の戦略的要衝として活躍してほしいものです。