1972年1月には、「西パ」の牢獄にいたシェイク・ムジブル・ラーマン(初代首相)がロンドン経由釈放され、私は国際赤十字を代表してダッカの空港に迎え出た。そのまま元競馬場に100万人(主催者発表)を集めた独立式典では旧こしらえの演壇に、これまた唯一の外国人として乗せられた。
独立戦争から独立直後にかけて掲げられたバングラデシュの国旗
どこに隠していたのか、新生バングラデシュの旗を取り出して喜ぶハチアの子供たち
「100万人」の聴衆を前に、歓呼の演説をするラーマン氏。
私もこの壇上におり、すぐ隣から撮影できた。今から思えばかなり危険なことだったかもしれない。
パキスタンの牢獄から釈放されてダッカに戻ったラーマン首相。
その直前を行ったので、この写真を撮ることができた。
拙著『血と泥と- バングラデシュ独立の悲劇』より。
後にラーマン首相とは誕生日が同じであることなどもあって、親しくなり、現国旗の中央にあった黄色のシルエットで描いたバングラデシュの国土の部分は国旗の製作上、また、大旗が翻りやすくするため取り外したほうがいいというおせっかいまでした。訪日時には歓迎式典のプロデューサーとなり、東京湾から和歌山県串本町まで、一晩、一緒に航海した。
最後は家族のほとんどとともに凶弾に倒れたが、国づくりの第一歩をこのラーマン首相が進めたことは間違いない。それゆえにいまでも「建国の父」として崇められている。
バングラデシュは私が若き日の情熱を傾けた、第2の故国である。