沖縄にとっては特別大切な「日の丸」
2012年2月26日、野田佳彦首相が就任後初めて沖縄県を訪問、仲井真 弘多知事との会食を前に、浦添市国際交流センター構内にある、わが師にして、沖縄返還実現に向け、民間側最大の功労者といわれる末次一郎先生の胸像に献花されました。朝刊で各紙が触れていますので、詳述はくりかえしません。去る13日、河合淳一総理首席秘書官が来訪され、そのことについて相談されましたので、私も協力し、沖縄在住の仲間である川満茂雄、安谷屋幸勇のお二人に一切の準備と当日の案内を依頼し、終了後、河合秘書官、川満、安谷屋の両人から報告の電話をいただき、ほっとしているところです。
末次一郎先生の胸像の汚れを洗い落とす全国から集まった門下生たち。
2月5日、沖縄県浦添市で。
この胸像は、知事就任前の仲井真氏が実行委員長になって募金して建設されたもので、毎年、沖縄で桜が咲き始める1月末か2月初めに、全国の有志が集って清掃に行っているものです。団長は、森高康行くんという、数年前には愛媛県議会議長でもあった同県議ですが、各地から県議、市議などの地方議員や大阪の濱野晃吉くんのような経済界で活躍している人たちです、私も一昨年は末次先生の奥様である清子夫人に同伴して参加しました。
今年の参加者たちは、清掃後、元小学校教諭で初代沖縄防衛協会婦人部長であった仲村俊子さんをお招きし、沖縄の祖国復帰運動と末次先生との連携と協力について学習しました。
以下は、そのときにいただいた『祖国復帰は沖縄の誇り』(椛島有三・ 仲村 俊子共著)から、復帰運動の難しさについての一節です。質問をしているのは椛島さんです。当時、「日の丸」をどう受け止めるかが、沖縄では大きな問題になっていました。その背景等を知る内容と思い、転載して紹介します。
末次先生は日本健青会中央執行委員長として、沖縄が復帰する20年以上前、1950年代前半に、沖縄に「日の丸」をおくる運動を実行したことは既にこのHPで紹介しました。
沖縄教職員会で「日の丸」を広げる運動
──沖縄では、昭和35年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、祖国復帰運動が大きな盛り上がりを見せました。仲村さんが所属していた沖縄教職員会でも、日の丸の掲揚運動などに取り組んだそうですが、当時の沖縄の人々の祖国復帰への思いについてお聞かせ下さい。
仲村:復帰前の沖縄には、アメリカ施政下の琉球政府がありましたが、県民感情としては祖国日本が懐かしいのです。米軍統治下で物質的には恵まれていましたが、私達の代で復帰を果たさないと、子供達は自分の祖国がどこなのかさえわからなくなってしまうと危惧されていました。
私たち沖縄県の教職員が所属していたのは、昭和27年に設立された沖縄教職員会で、これは後の沖縄県教職員組合(昭和46年~)のような労働組合ではなく、純粋な教育団体でした。初代会長の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)先生は、沖縄復帰前の行政主席を務め、復帰後も初代の沖縄県知事になった方ですが、非常に純粋な教育者で、私はとても尊敬していました。生徒を通して「日の丸」を広げる運動を行ったのは、この屋良会長の時代です。当時、私は平敷屋中学校に勤務していましたが、初めて「日の丸」が学校に届いた時には、胸に響くものがあり、涙が出ました。
昭和30~40年代には、教職員が復帰運動の中核となり、デモ行進を行っていました。「沖縄を返せ」と歌いながらデモをやったことが今でも忘れられません。祖国復帰運動では、方向性や思想の違いはありましたが、沖縄全県で「日の丸」が揺れ、県民は復帰を願っていました。
また、当時の佐藤栄作首相は、沖縄県の祖国復帰に並々ならぬ決意を持っておられました。佐藤首相は就任翌年の昭和40年8月、那覇空港において「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国の戦後は終わらない」と述べられましたが、この声明は私たち沖縄県民にとって大変ありがたいものでした。
このようにして、祖国復帰を願う県民の思いと、佐藤首相の決意のもとで返還交渉は進み、昭和44年11月の日米首脳会談で「核抜き、本土並み、3年後返還」が合意されました。
──ところが、当時本土では所謂「70年安保」の時代で、沖縄の復帰運動も左傾化し、次第に変質していきました。
仲村:昭和43年、屋良先生が行政主席に当選されたことに伴い、事務局長の喜屋武眞榮先生が会長に就任しました。その頃から沖縄教職員会が変わり始めたのです。
学校に「日の丸に賛成か、反対か」というアンケートが配られ、驚いて思わず「本当に喜屋武先生の名前で来ているのか」と聞いたほどです。私の勤務していた那覇市の城岳小学校はしっかりした人が多く、「賛成」が多数でした。すると「やり直し」と言われてアンケートが返ってきたのです。指導を受けて「反対」を多くすると、ようやく通りました。この一件でおかしいと感じ始めました。
名護で開催された教職員婦人部の会では、「今の日本に復帰するのではないから、復帰は言わずに安保反対だけを言え」という主張がなされていました。
それまで祖国復帰を願って運動していたというのに、佐藤首相の沖縄復帰交渉の予定がわかると、訪米阻止の運動が始まりました。そもそもアメリカへ行って相談しなければ、復帰など出来ないではないか、と思いました。学校には「70年安保に向けて」というパンフレットが回ってくるようになり、街には「沖縄を日本革命の基地にしよう」という教職員会のポスターが貼られるようになりました。
また、学校でも闘争資金集めがあり、私はこの組織には絶対についていけないと感じるようになりました。そこで、組合に疑問を持っていた25名の教師で、政治家や経営者協会から講師をお呼びして勉強会を始めました。そして、「皆で教職員会を脱会しよう」と相談すると、男の先生さえも「復帰してから脱会する」などと尻込みしたりして、結局昭和44年11月に6名だけで脱会しました。
脱会に際しては、「沖縄タイムス」と「琉球新報」に脱会声明を載せることにしました。
上原義雄先生を筆頭に名前を連ね、連絡先として私の電話番号を掲載したのです。新聞社の人は、「相当の圧力が来ると思うが大丈夫か」と心配してくれましたが、私も覚悟の上でしたので「大丈夫です」と申し上げました。
脱会声明を出した翌朝、抗議ではなく、「よく頑張った」と激励の電話を立て続けに受け、学校に遅刻しそうになりました。沖縄県民はなあなあでありながら、やさしい所もあるのです。激励を受けて、ありがたい思いでいっぱいでした。
東京から「祖国復帰が危うい」との連絡が
──「沖縄返還協定」は昭和46年6月に調印され、同年11月に批准、翌47年5月に沖縄返還という運びになるわけですが、この調印した後、批准するまでが一番大変な時期だったそうですね。
仲村:当時、沖縄の祖国復帰が決まって、私も大いに安心していました。この思いは県民共通で、日本復帰そのものには誰も反対していませんでした。ただ、「核抜き、本土並み」の条件は約束されたものの、県内の基地を維持するのか、安保条約を延長するのかなどで意見が分かれており、より良い条件で復帰したという意思を示すために、デモなどの反対運動が行われていたのです。
ところが、沖縄の復帰は決まっていることだろうと思っていたところに、東京在住の菊地藤吉先生から「復帰が危うい」という電話をいただいたのです。「喜屋武会長が復帰反対運動をしている。沖縄県民が望まないのに無理してまでも復帰させなくてもいい、という話が国会でも出ている」というので大変驚きました。
喜屋武会長は、昭和45年に教職員会が推して参議院議員に当選していました。その立場を活かして、衆参の議員、与野党に「批准に反対してくれ」とお願いしてまわっていたそうなのです。沖縄でも、返還協定の批准に反対するデモがありました。沖縄県民は復帰は決まったと考えて、事情がわからず安保反対を訴えていただけなのです。しかし、東京では、県民の大多数が復帰そのものに反対しているかのように見えたでしょう。「沖縄県民が望まないのであれば、強行採決してまで沖縄復帰をすべきではない」というムードになっている、とのことでした。
話を聞いて驚きましたが、一平教員に何が出来るか、焦ってもどうにもならない、とも考えました。自民党の江崎真澄先生から経営者協会に「沖縄は立ち上がれ」という激励と、「運動を起こしてください」という要請の電話が来たのはその頃でした。それを聞いて「ああ良かった」と思ったのですが、いくら待っても何も動きがありませんでした。
時間ばかりが経過し、菊地先生から「本当に復帰できなくて良いのか」という催促の電話がありました。もう居ても立ってもいられず、5、6人の同志が集まり、復帰のために運動を始めたのです。沖縄を利用する左翼運動も、復帰さえ果たせば止まるだろうという大きな期待もありました。
話し合った結果、組合を一緒に抜けた上原義雄先生とともに陳情団を結成することにして、「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」という陳情団の結成集会を企画したのです。
県民集会を行う前に、校長先生に年休(年次有給休暇)をもらいに行きました。60人あまりが年休を使って復帰反対運動をしていると聞いていましたので、「教職員会は年休をもらって、運動を行っていると聞いています」と言ってお願いしましたが、やはり答えはノーでした。困り果てて、夫に相談すると、「うその電報を打ちなさい」と教えてくれました。そこで、東京の予備校にいる長男に電報を打たせ、「息子が盲腸なので2週間の休暇をください」とお願いすると、ようやく許可が下りました。
県民集会に向けて、「今こそ心を一つにして祖国に帰ろう」「批准反対は自殺行為だ」という2種類のポスターを作り、夜中に貼って回りました。そして、街頭に出ては祈るような気持ちで県民に訴えました。
そして、昭和46年10月31日に県民集会を行い、会場の与儀公園には千人以上の人が集まってくれました。公園前には、私が当時勤務していた与儀小学校も教育委員会もありましたが、私はクビを覚悟で、広島で沖縄復帰反対のビラを配る女の子に「あなたは誰の許可を得てこんなビラを配っている。私は沖縄県の人間だが、私たちは復帰したいんだ。勝手なことをするな」と、もう自分が教師であることも大人であることも忘れて、道の真ん中で食ってかかった体験を発表しました。
県民集会には、首長の何人かが顔を出してくださり、郷土の勝連からも何人か議員の参加があり、さらには街頭行進も行いました。
「祈・批准」と書いたタスキでデモ行進
──そして11月3日、仲村さんを含む8人の陳情団が上京しました。
仲村:上京の際に全面協力してくださったのが、菊地藤吉先生と末次一郎先生でした。右も左もわからない中で、政治家や県出身者と会談の場を設け、国会のポイントを案内してくださったのです。
4日には早速、沖縄選出の国場幸昌先生、西銘順治先生の両自民党代議士、参議院の稲嶺一郎先生と懇談の場を持っていただきました。午後には、自民党本部で幹事長の保利耕輔先生、国民運動本部長の江崎真澄先生を訪ね、早期批准を要請しました。
さらに5日には、官房長官の竹下登先生、総理府総務長官の山中貞則先生、民社党書記長の佐々木良作先生、沖縄及び北方問題に関する特別委員会の床次(とこなみ)徳二先生、外務委員長の田中栄一先生らと会見し、沖縄返還協定早期批准を要請しました。特に、竹下長官には「復帰できなければ沖縄の人は全員卒倒します」と訴えたところ、涙ながらに聞いてくださいました。
そして6~13日には、都心部やターミナルなどでビラの配布や街宣活動を展開しました。沖縄の声無き声を届けようと必死にビラを撒いていると、思わず涙をポロポロ流していました。
東京都内でデモ行進もやりました。その時のアナウンスの「このデモ行進は、ゲバ棒もありません。ジグザグ行進もありません。沖縄の一日も早い祖国復帰を訴える整然としたデモ行進です」という訴えの声が、今も耳に残っています。デモ行進の際には、沖縄返還協定批准を願って「祈・批准」と書いたタスキを掛けました。沖縄が復帰できますようにと、天に祈り、地に祈りながら、涙ながらに訴えたのです。だから、私は今でも「祈」という文字を見ると、復帰運動を思い出さずにはおれないのです。
この間、批准反対の行動も過激化し、10日には沖縄ゼネスト警察官殺害事件、14日には渋谷暴動事件が起きて、両方で火炎瓶を投げられて警察官が亡くなりました。ニュースを見ていてそこまでやったか、と本当に驚きました。そのような状況下での活動でしたが、「私はこのために生まれてきた」という思いで頑張っていました。
そして11月17日に、「沖縄返還協定」が衆議院沖縄特別委員会で強行採決され、24日には衆議院で自民党が単独採決。沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決されました。本当に皆さんの力で出来たことだと感謝しています。
沖縄へ戻ったときには、年休の2週間を超えていました。学校で60人あまりに吊るし上げられ、組合の分会長は「お前たちが陳情に行ったから沖縄返還が強行採決されたんだぞ」とノートでテーブルを叩きながら怒鳴り散らしていましたが、私は「私のクビ一つだけで沖縄が復帰出来れば安いものだ」と吹っ切れた気分で出勤していましたので、何を言われても蚊がブンブン泣いているぐらいにしか聞こえませんでした。
何日か経って、校長先生とともに那覇市の教育委員会に呼ばれましたが、大変理解のある教育長で、私はクビにならずに済みました。
→ 沖縄日の丸①