アフリカを知ろう!② – ジェノサイドのイメージ一掃を込めたルワンダの国旗

7月16日の朝日歌壇入選歌にこの一首がある。

アフリカを知らざる者がアフリカのオレンジ食べて思うアフリカ

新潟県長岡市の国分コズエさんの作で歌人の高野公彦さんの選による。

ルワンダ共和国の国旗
2001年に改訂されたルワンダの国旗。
それまでの国旗から連想されたジェノサイドのイメージを一新するデザインである。
1958年に採択された旗に、王政を倒して独立した62年にRの文字が付け加えられたルワンダの前国旗。
Rはルワンダ、革命、共和国、国民投票などのフランス語の頭文字。

アフリカは日本がもっともっと進出すべき地域である。近年、ようやく大使館も増えてきたが、一時は、アフリカ当該国の大使館が東京にあっても、日本からの大使館がないマラウイモーリタニアのような国が数カ国あったこともある。

マスメディアも一時、毎日新聞がジンバブエの首都ハラーレに支局を置いたこともあるが、多くはケニアのナイロビか、南アフリカのヨハネスブルクにのみ、特派員を常駐させているだけだ。エジプトのカイロには多くのメディアが支局を持つが、それは中東情勢をフォローするためであり、サブサハラ(black Africa)を担当するためではない。

1985年、森繁久弥さんを会長に、私が実行委員長になって、「アフリカに毛布をおくる運動」を行い、全国から173万枚の毛布をお送りいただき、13カ国に届けた。また、外務省三宅和助中近東アフリカ局長(当時。三宅雪子「生活」党所属衆院議員のご尊父)とともに、安倍晋太郎外相(当時。晋三元首相のご尊父)にアフリカ諸国への訪問を説き、ザンビア、モザンビークなどへご一緒したこともある。我が国の外相が国際会議に参加するためにナイロビを訪問したことは2度あったが、外相として個々の国を歴訪したのはこの時が初めてであった。

ザンビアの首都ルサカではホテルで4時間半にわたり、焼酎のお湯割りやウィスキーを飲みながら語り合ったのをいまでもよく覚えている。同国での難民を助ける会の活動許可がなかなか出なかったのを、翌朝、安倍外相からカウンダ大統領に直談判してもらい、一挙に解決し、爾来今日まで、30年近く同国での活動が続いている。

それ以来、私もアフリカとの縁が続き、何度かアフリカを訪問したが、まだまだアフリカを語る資格はない。私たちは、「オレンジを食べて思う」だけではなく、もっともっとアフリカを直接知る必要があろう。

今年は8月末に、社会福祉法人さぽうと21の夏期合宿が被災地で行われる。その時一緒に研修する中に、日本語にも堪能なナイジェリア出身の素敵な女性がいる。こういう機会を通じてでも、特に若い人のアフリカ理解を進めたいものだ。

朝日新聞の今回の現地レポートは確かにいいが、サブサハラに1つしか支局がないというのはあまりに寂しいではないか。NGOや青年海外協力隊は何百人、何千人もがアフリカを経験しているのに。

フツ族、ツチ族の殺し合いが続き、2004年には映画「ホテル」によって、あらためて世界を震撼させた国がルワンダ。1994年に勃発した紛争により多数派のフツ族過激派が穏健派や少数民族のツチ族120万人以上を虐殺するという状況の中、1200名以上の難民を自分が働いていたホテルに匿ったホテルマン(ポール・ルセサバギナ)の実話に拠る物語である。舞台となったホテル「オテル・デ・ミル・コリン」は、営業を再開している。

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