19世紀の初頭、ナポレオン・ボナパルトはスペインと同盟を結んだ。このため敵対するイギリスは海軍力を活用してラ・プラタ川周辺地方の獲得を狙い、1806年に今のアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに侵攻、同年、今のウルグアイの首都モンテビデオを占領する。
ホセ・アルティーガスはこの侵攻に対して市民を喚起し、1807年に英軍と戦い、これを駆逐した。
他方、翌1808年、フランスのナポレオンは兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。イベリア半島ではこれに反発したスペイン市民が蜂起し、ゲリラ戦を展開しフランス軍を悩ませた。guerrillaという言葉は、この時から今日まで世界中で使われるようになった。
一方、1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発した。国旗のあかるい空色は、ラプラタ地方副王府(スペイン王の代理人)に対するブエノスアイレスの市民たちが蜂起したこの時時(五月革命)の帽章の色。
この蜂起の最中は雨の日が多かったが、勝利の日5月25日はすっきりと晴れあがっていたので、それを記念して、中央に「五月の太陽」を描いたもの。
太陽はまたインカ帝国の象徴である太陽神インティを表す。
この蜂起後でラ・プラタ副王を追放すると、翌1811年から共和主義者たちがスペインからの独立戦争を開始した。しかし、1816年にはポルトガル軍がブラジル帝国から侵攻し、ブラジル帝国とラ・プラタ連合州とのアルゼンチン・ブラジル戦争(シスプラチナ戦争)となった。1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンがモンテビデオ条約を締結、「ウルグアイ東方共和国」が置かれることになった。
その後もアルゼンチンとウルグアイの関係は複雑な敬意をたどるが、国民はスペイン語を用い、宗教はカトリックということで、ウルグアイは総じてアルゼンチンとの友好関係を維持しつつ、「南米のスイス」のような立場を続けてきた。